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『からくりサーカス』鳴しろSS置き場です。
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(50) 紫陽花や白とは云えど移る色 1/7





物話は現在に追いついて、舞台は姫紫陽花の咲く季節、オープンから一年が経った『Cirque』。
椅子に乱暴に腰かけた鳴海がエレオノールに叱られた次第。







「ナルミ、注文はいつものでいい?」
「んー、今日はアイスで」
「かしこまりました」
エレオノールは柔らかくて甘やかで、触れたら直ぐに溶けてしまいそうな微笑み付きで、如何にも店主らしい返事を寄越した。エレオノールの笑顔は鳴海の大好物だが、それが十把一絡げの男客にも振り撒かれていることが少し切ない。エレオノールの、ビジネスライクな対客人用笑顔の中、鳴海に向ける笑顔だけが特別であることが鳴海には分からない。
鳴海は背広を椅子の背もたれに雑に掛ける。バッグの中からノートパソコンを取り出すとカウンターに置き、次いでメガネを掛け、仕事に取り掛かった。ノートの画面に目を据えながらも、下げたカップをシンクに置く音、シンクを流れる水の音、細い指が洗った食器を水切りカゴに並べる音、彼女の奏でる音だけでその姿が脳裏に描かれる。
つい、と目を上げると再びエレオノールが鳴海の視野に戻り、ただの景色を情景に変えた。梅雨時の湿度など存在しないかの如き涼やかさ。
水仕事が一段落したエレオノールは、片上げ窓の近くで鳴海の注文に取り掛かる。黒檀の木枠で縁取られた窓からの明かりが、エレオノールの身体の上に光の濃淡を落とす。傍らのオケージョナルテーブルの上に生けられた紫陽花や、彼女が操るシンプルでアンティークな道具が仕草の優美さを引き立て、その様は一枚の絵画のようだ。
軽く伏せられた目にも、きゅっと結ばれた口元にも、湯を注ぐ指先にも、知性と官能が同居していてどうしたって見惚れてしまう。


「今日はこんな時間にどうしたの、ナルミ?もう帰宅…ってわけじゃないんでしょう?」
白い壁に掛けられた、年号を軽くみっつは乗り越えてきている振り子時計の針は三時を軽く過ぎた時刻を指している。鳴海は毎日のようにエレオノールの店に顔を見せるが、大抵は会社帰りの閉店後の遅い時間だ。たまにランチタイムにもやって来るけれど、ティータイムに客として訪れたのは開店以来、初めてではないだろうか?
カウンターの向こうからいきなり話しかけられて、盗み見していた自覚のある鳴海は些か上擦った声で
「いや、今日は午後半休」
と答えた。
「珍しいわね」
エレオノールが銀目をまん丸くする。
「先週、休日出勤したからその代休を、な」
「そうだったわね。あなたはもっと休んだっていいくらい」
くすり、と笑ったような色を混じらせて、エレオノールがアイスコーヒーを運んできた。
「そうやって持ち帰りの仕事があるの?」
「まぁ…半休っつっても、結局は家でもやれる仕事をまとめて片付ける時間、つうか」
「だったら自宅に戻ってした方が楽じゃない?」
そう言われると思った。鳴海は苦笑する。
ここにはエレオノールがいる。エレオノールの傍に居られる。客として、だけれど。仕事、なんてのはここに長居するための口実だ。
「家だと結局ダラけるからなぁ。ここの方が落ち着くし。仕事が捗ると思うぜ?」
と笑って見せると、エレオノールは「そう?」と小首を傾げて淡い微笑みをくれた。


「メガネ」
「うん?」
「手仕事をする時にはメガネをするようになったんだな、って思って」
「前に目をやっちまったからな。でもこれブルーライトカットのだぜ?視力はさして落ちてねぇ。念のため、目を大事にしてるだけ」
「そうなの?ならいいいんだけれど」
左手でメガネのフレームのズレを直す。鳴海は左手に必ず手袋をはめるようになった。シャツも右腕は捲り上げているのに、左腕は下ろしたまま。気温や湿度が鬱陶しい季節になっても、薄手の長袖を常に羽織る。あんなに暑がりなひとだったのに。エレオノールは鳴海の火傷の痕を見たことがない。そこに感じられる、傷痕をエレオノールに晒さないようにしている鳴海の意図、そしてそれくらいに酷い痕が残った事実に、エレオノールは胸が潰れる想いがする。
目も、左手も、自分と再会してから鳴海が重ねた怪我だ。
大好きな鳴海の傍にいられる今の生活がエレオノールの全て。だから苦しい。自分は鳴海に不運を運んでいる。自分は彼の側にいない方がいいのではないか、鳴海が手に火傷を負ったあの日からずっとその思考に取り憑かれている。


エレオノールは何度も鳴海に救われている。
鳴海のためになら、どんなものにもなれるから。
彼のために、この身のカタチを変えたいと思った。
彼が自分を欲しいというなら全てを捧げるし、居心地のいい店主として必要ならばそれに徹する。
自分の想いが要らないのなら、ずっと死ぬまで秘していく覚悟も出来ている。ただ、近くで鳴海の笑顔が見られるのなら、それで良かった。
でも、自分が傍にいることで、彼に不運を呼び込むのだとしたら、彼のための『この身のカタチ』は「消えること」だ。
物思いに沈んでいると
「すみません、お会計をお願いします」
とカウンターでコーヒーを競い合って飲んでくれた客が立て続けに席を立った。さすがにお腹がダブダブになったらしい。
「あ、はい、お待ちくださいね」
会計を済ませ、客を見送る。戸口から見上げる空は厚い雨雲に覆われていて、空気はしっとりと湿気を含んでいる。間もなく雨が降るのかもしれない。店先に傘立てを出す。


鳴海の仕事の邪魔にならないよう、静かにカウンターの片付けをする。下げた器をシンクに並べながら、鳴海を盗み見た。メガネをかけて仕事をしている鳴海が見慣れなくて、やけに男くさくて、エレオノールの心臓が五月蠅い。自分より6歳も年上で、三十路を過ぎてもどこか無邪気な鳴海が、たったひとつのアイテムで大人の男のヒトに見える。
こんなに好きなのに。大好きなのに。
鳴海に心を彷徨わせていると
「どうかしたか?」
と問われた。視線が煩わしかったかも、と思い
「ううん、別に。ただ……きれいだな、って思って」
エレオノールは鳴海の背後、窓の外、庭に植えられた紫陽花の大株が咲かせる見事な白花の群生に目を向けて誤魔化した。庭弄りが趣味だった故ケンジロウのお陰で四季折々の草花が、店内から楽しめるのがありがたい。今の季節の見頃は紫陽花だ。
鳴海もエレオノールを見る瞳を眩しそうに細めると、ぐるりと身体を窓に向けた。
「そうだな。紫陽花が綺麗だな……あ、雨降ってんのか」
雨粒が滑らかな紫陽花の葉を打っている。
「本当。さっき表を見たときはまだだったのに」
「天気予報が言ってたより降り出し早ぇなぁ」


雨、と知ったテーブル客も「本降りになる前に帰らないと」と席を立った。
これから雨足は強くなるだろう。客を見送ったエレオノールは店内に戻ると、帰った客のテーブルを片付けた。
エレオノールは天板を布巾で拭き上げながら、窓越しに見える、そぼ降る雨に煙る純白の紫陽花にじっと見入った。花は季節の移ろいをそっと教えてくれる。濃い緑の葉に夥しい数の目映く白い手毬たち。
ふと、左耳に視線が掠めたような気がしてその方向に首をゆるりと向けた。光の白と緑から、影の橙に色調が変化する。暖かな照明の灯る、深い珈琲の香りの向こうの艶やかな黒い瞳と目が合った。
「どうかしたの?」
今度はエレオノールが問う番。鳴海はゆるりと視線とメガネを外し、窓の外へと戻した。
「ん?何……オレはガクアジサイよりはこういった手毬の形の紫陽花の方が好みだなって思ってよ」
鳴海は笑っている。エレオノールも表情を柔らかく解す。鳴海の笑顔を見ると、笑うことの得意でないエレオノールも自然と笑えるから不思議だ。彼女に気負うことなく、素直に表情を作る手伝いを鳴海はしてくれる。
彼にはそんな自覚はないだろう。こんなのは、私の、気持ちの持ちようだから。
「……そうね、私も、こっちの方が可愛いと思う。手毬の形の紫陽花は今の時期の結婚式で花嫁がブーケに使っても素敵」
「花嫁、ね」
鳴海の声から色が失せた。
「何?」
「いや、何でも」
六月の花嫁。ジューンブライド。
エレオノールは何故、「花嫁のブーケ」など話題に出したのだろう?結婚式を挙げるイメージが彼女の中にあるからだろうか?誰と?誰と挙げる結婚式?それはやはりリシャール、なんだろうか。


三ヶ月ほど前になる。リシャールはエレオノールにプロポーズしたと言った。でもエレオノールからは一切の話はない。どう返事をしているのかも今だ分からない。あれからリシャールに会うことはなかったし、鳴海の方から待ち伏せる気もなかった。
尤も、彼女が自分に報告する義務なんてどこにもない。突然の幸せ報告でサプライズ、なんてことも考えられないわけでもない。
タイムリミットは六月いっぱい、残りは十日ほど。
あれからずっと、鳴海の中には狂おしいほどの焦燥感と嫉妬心が逆巻いている。一日一日、暦が削れる毎に鳴海の心が平衡を保てなくなって来ている。カウントダウンが始まってしまった今はいつも通りの顔、いつもと変わらない態度を保つだけで精一杯、言動は、崖っぷちだ。きっと切欠なんてそれと分からないくらいの些細な何か。それにほんの少し押されただけで、自分の中の歯車が狂う。
エレオノールに訊ねてみればいいと思う。もしかしたらリシャールのプロポーズは断られていて、彼女は七月になってもこの店で店主を続けてくれるかもしれない。けれど、怖くて訊けない。もしも「そうよ、リシャールと結婚するの。今月いっぱいで国に帰るの」、そんな答えが笑顔とともに返ってきたら?怖くて、現実と対面することを先送りにしている。
白い紫陽花のブーケを携えたエレオノールはさぞかし美しい花嫁になるだろう。
その傍らに立つ新郎、それが自分でないことだけは確かだ。エレオノールを奪われる焦燥感と嫉妬心が喉元まで込み上げてくる。


今、店の客は鳴海しかいない。こんな時間帯に鳴海が店にいるのも、客が絶えるのも、開店以来初めてのこと。
そんな二人のためにレコードが流すのはベートーヴェンの『月光』で、結ばれない恋を嘆いて作られた曲なんて何の皮肉だろうか。
鳴海はひりつくほどに乾いた喉を宥めるためにアイスコーヒーを一気に呷った。
「あ、お代わりを用意するわね」
エレオノールが鳴海に近づき、空いたグラスに手を伸ばした。鳴海の真横でエレオノールの身体が揺れる。コーヒーの香りが満ちる店内で、鳴海の周りだけ匂いが塗り替えられる。間近に香る花の香気。エレオノールの甘い体臭。彼女の匂いに纏わる記憶が強制的に引っ張り出される。それはここしばらく鳴海を悩ませる焦りと交じり合って、彼に反射的な本能による行動を取らせた。
一瞬のことだった。鳴海の腕がエレオノールの腰に回り、自分の胸元に引いた。そして、エレオノールの腰に額を付け、それと分からぬよう、服の上から唇をつけていた。
しまった、と思った時にはもう遅い。
「な、ナルミ…?どうしたの…?」
エレオノールの声が戸惑っている。それは当然だ。
『隣人』に徹すると決めたあの日から、こんな風に手を伸ばしたことなど、一度だってないのだから。



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