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『からくりサーカス』鳴しろSS置き場です。
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(38) 死滅回遊 4/8





「嫌…ッ!」
エレオノールは勢いよく跳ね起きた。
ザラザラと雨が窓を打ち、流れ落ちていく音の向こうで踏切の警報音がまだ鳴り響いているような気がする。
酷い夢、吐き気がした。呼吸は乱れたまま、身体の震えが止まらない。エレオノールは布団の陰でそろそろと、脚の間に手を伸ばす。そして、そこが汗ではない何かでしっとりと濡れていることを確認し、がっくりと項垂れた顔を両手で覆った。
私は汚れてしまった。汚されてしまった。
身体が勝手に、でも、心がそれを望んでいるから、身体が勝手に。
身体に巣食った淫夢はこれからも、坂道に向けて自分の背中を押すのだろう。
緩慢な精神の死、それが自分に与えられた未来なのだろうか。
エレオノールは黄ばんでしまった身体が、蝕まれている心が、それを許容した己が赦せない。


「あ…」
ハッと気がついた。
穢れた手で、顔を覆っていたことに。咄嗟に左手を引き剥がすも、時既に遅く、汚れを飛び火させてしまった。
「顔…が…」
こうやって少しずつ少しずつ、汚濁が広がって、腐っていく。
この手がある限り、侵食は止まらない。
鳴海に嫌悪される手、鳴海に触れられない手。
心の中にピシリと大きな亀裂が走った時、エレオノールの頭の中に名案が閃いた。
分かった…この手が無くなればいいんだ。
そうすれば、これ以上汚れは広がらない、綺麗なところは綺麗なままでいられるじゃない。
「どうしてこんなかんたんなことにきがつかなかったんだろう」
エレオノールは抑揚の無い声で呟くと、ベッドをそっと下りた。







豆電球の頼りないオレンジ色の室内に、夜半から降り出した冷たい雨の音だけが響く。
今は一体何時だろう、と鳴海は枕元の携帯に手を伸ばした。
午前1時を回ったところ。
時間経過が気になって何度も時刻を確かめるけれど、然して時間は過ぎていない。


鳴海が1曲歌を歌い終えると、エレオノールは電池が切れた玩具のように静かに眠りに落ちていた。余程草臥れていたのだろう。昏々と眠るエレオノールの髪を撫でて、頬を撫でて
「ぐっすり眠れ」
と頬にキスを落として、エレオノールの寝室を後にした。
廊下の空気は冷たく乾燥していた。びっくりするくらい無味無臭に感じられる空気に身体が軽くなるのを覚え、彼女の部屋にいた自分は細胞の隅々まで彼女の匂いで満たされていたのだと理解した。


隣からは勝の安らかな寝息がすやすやと聞こえてくる。鳴海は瞼を深く下ろして、ふう、と太く息を吐いた。どうしても、眠れない。
睡魔が訪れてくれない理由、もちろん、最愛の女がひとつ屋根の下で眠っている状況、というのはある。
それはそれとしてあるけれど。
今、鳴海の頭の中を占めているのは、エレオノールの身に降りかかった破滅的不幸のことだった。
夕飯を食べながらもエレオノールはどこか瞳を翳らせたまま。食事中、彼女は左手を使うことは一度としてなかった。食事に限らず、彼女は何をするのにも、左手など存在しないかのように振舞った。


痴漢行為に対し被害届を出すことにしたエレオノールは調書を取ることになった。デリケートな話だけに鳴海は席を外そうとしたところ、エレオノールに傍にいて欲しいと頼まれた。そして彼女の口から赤裸々に、そして淡々と語られる被害状況を聞くことになった。彼女の受けた仕打ちが明らかになるにつれ、鳴海の腸は煮えくり返った。怒髪天とはまさにこのことを言うのだろう、全身が総毛立つのが分かった。
彼女が自分の左手を嫌うのは、その手で凌辱者のペニスを握らされ、その手の中に精液を吐き出されたからだ。一人の男として愛しているエレオノールを辱め、傷つけた男に対し、殺意を覚えるくらいの怒りが湧いた。
しかもそれが、かつてのエレオノールのストーカーだという。
まだエレオノールが『曲馬団』を避難所とする前のこと、駅から尾けてきたストーカーに物陰に押し込まれ強姦されかかったことがあった。その日の鳴海はどうにも胸が騒ぐので予定をキャンセルして帰宅を早めたのだが、この時ほど己の動物的勘に心底感謝したことはない。帰り道に置き去りにされたエレオノールのスクールバックに「虫の知らせはコレか!」と彼女の危急を悟り、警察犬並みの探知能力で現場に駆け付けた。鳴海はレイパーに一撃をお見舞いすると、泣きじゃくるエレオノールを奪取し、その貞操を間一髪のところで死守したのだった。
レイパーは急行したパトカーに乗せられていき、接近禁止のお達しも出ていたのだが、エレオノールが母国に帰っている間にリセットされたものか、今回のこの暴挙。
奴の息の根を止めておかなかったことを甚く後悔した。


ただ。
今回話を聞いて、己の中で逆巻いた感情は純粋な怒りだけだったのだろうか、と鳴海は問う。
エレオノールに対し卑劣な真似をした痴漢に、嫉妬を覚えてはいなかったか。
一瞬でも羨ましいと考えなかったと清廉潔白な心で言い切れるのか。
どんなに好きでも鳴海はエレオノールに触れることができない。
それが例え、愛情をもって触れるのだとしても、鳴海には叶わないのに、邪な劣情を抱いた男が自分の大切な女を肉欲の毒牙にかけたことに、全く悋気がなかったかと問われたら。
否だ。
とすると、自分も、エレオノールを苦しめた痴漢と同類だ。
エレオノールを凌辱したいと認めたようなものだ。
理性があるからしないだけで、理性が切れたら同じこと、もしかしたら普段自分を抑えつけている分、もっと酷い目に合わせてしまうかもしれない。
エレオノールを抱いてしまいたい、理性と鬩ぎ合う欲望がすぐそこまで、せぐり上げている。
それが鳴海の頭を悩ませ、安らかな眠りも、遠ざけていた。
エレオノールのために親身になっているような顔をして、実は、自分のことしか考えていない。
震えて自分のところに飛び込んできたエレオノールには、自分しか頼る人間しかいないこと、その儚い身の寄り代に自分を選ばざるを得ないこと、それがどれだけ鳴海を昏く悦ばせたか。
今彼女の家に自分がいるのは、痴漢が彼女を傷つけたからで、自分がここにいる現状を嬉しく思うということは、彼女を辱めた痴漢に感謝しているということだ。
「オレって…サイテイだな…」
己に失望する溜め息が止まらない。
まんじりともしない、このまま朝を迎えてしまいそうだ。


不意に、ぺた…ぺた…、と階段を踏む軽い足音が聞こえた。ゆっくりと下りてくる。
「なんだ…エレオノール…?」
鳴海は身体を起こして、心配そうに様子を窺った。
襖を細く開けた鳴海の前をエレオノールがふらふらと通過していった。エレオノールの目には鳴海が映っていないようで、上体を左右に大きく揺らしながら、キッチンへと向かう。鳴海も廊下に滑り出ると背中で襖を閉め、その後ろを静かについていく。
喉が渇いたんだろうか、と見つめる鳴海の視線の先、エレオノールはシンク下の扉を開けると、何かを引っ張り出した。右手で掴んだ何かを大きく振り被る。
「お…いおいッ!」
それが何かが分かった鳴海は脊髄反射で飛び出した。鈍く光る刃、包丁が左手首に振り下ろされる。
「待て!エレオノール!」
鳴海は寸でのところで両手首を捕獲した。
手首と包丁の間は数センチ。
細腕からもぎ取ろうとするも、鳴海が手こずる程に正体不明のエレオノールの力は強く、尋常じゃない力で鳴海の腕ごと包丁を左手首に近づけようとする。
「何のつもりだよ…ッ」
多少荒っぽいが、力技で無理矢理手の平を開かせる。ゴトリ、と凶器が床に落ち、鳴海は足先でそれを蹴って、エレオノールの手が届かない場所まで滑らせた。
「はァ…はァ…良かった、間に合って…」
全身から冷や汗が噴き出した。飛び出す判断が後もうちょっと遅れていたら大惨事になっていた。ホッと胸を撫で下ろした鳴海は、両手首を握ったままのエレオノールを抱えて、その場にへたり込む。
「おまえ…何やって…」
「左手が汚くてどんなに洗ってもドロドロしたのが取れないだったら切り落とせばいいっていい考えでしょ?」
熱に浮かされたようにエレオノールは早口に捲し立てる。目は焦点が合っておらず、鳴海を見ているようで見ていない。言葉も上滑りして、まるで独白。
「全然いい考えじゃねぇ。そんなコト、すんじゃねぇよ…」
「あそうねここじゃ家が血だらけになっちゃうものじゃ外で切ってくる」


エレオノールは鳴海の手を振り解こうと躍起になる。女のものとは思えない、リミッターが外れて常人離れした力に引き摺られそうになりながら、鳴海は必死にエレオノールを抱え込んで制止した。
「しろがね!」
細い体をぎゅうと抱き締めて、かつて彼女が自分だけに教えてくれた名前を呼ぶ。エレオノールの動きがぴたりと止まった。
「正気に戻れ、しろがね。おまえの左手は汚くねぇから。キレイだから」
何度も何度も語りかける。
「心配するな。おまえは綺麗だ。オレは気にしねぇ」
そのうちにエレオノールの四肢から不自然な力みが失せ、ぐったりと、鳴海の胸の中に沈み込んだ。


「きれいじゃ…ない…これじゃあ、私…何にも…触れない…」
涙色の声、弱弱しい筋肉の張り、エレオノールが正気に戻ったと実感する。
自分を抱え込む鳴海の太い腕に、銀糸をそっと添わせてエレオノールは震える。
「あなたにも、触れない…」
ぽつん、と透明な涙がひとつ、鳴海の手に落ちた。
「どれ」
鳴海はエレオノールの左手を包むと、手の内に広げてみせた。
「どっこも汚れてねェじゃねぇか。どこが汚い?」
「目に見えなくても汚れてる…何したって汚いもの…」
皺の一本一本にあの男の精子が潜り込み、蠢いている気がして気持ち悪くて仕方がない。それは皮膚を食い破り、血液に溶け、全身に枝を伸ばそうとしているような、エレオノールは自分の左手がおぞましい。
「ふうん…」
鳴海は親指の腹でエレオノールの手を擦る。
「触らない方がいい…。ナルミまで汚れて」
突然、鳴海は幅広の舌で、エレオノールの手の平をベロリと舐めた。エレオノールは驚いて、鳴海の腕の中でびくんと跳ね上がった。唖然とエレオノールが目を丸くする前で、
「オレは、平気で舐められるくらいに綺麗だと思うがな」
と、鳴海はもう一度、今度は彼女の手首から指の先まで舐めてみせる。濡れた温かい舌が這う度に、ピリピリと甘い痺れが全身に走り、エレオノールの呼吸が浅くなった。
「な?平気だ」
鳴海は笑う。
「おまえは綺麗だから。どこも汚くねぇから。気に病むな、もう」
太い指でエレオノールの目元を擦って、頭を撫でる。
「綺麗じゃねェな、オレの涎で汚れちまった。舐めて悪かった。気持ち悪かったろ?さ、手ぇ洗え」


鳴海がエレオノールの手を引いて立たせようとすると、彼女は動かず、ふるふると首を振った。
「いい。洗わなくても」
エレオノールの思わぬ言葉に
「いや、でも、それはしかし…」
と鳴海が面喰らう。
「ナルミ?」
「エレオノール、そこはちゃんと洗っとけよ」
「もう一度、お願い、できる…?」
「も…う、一度…」
エレオノールは鳴海の唾液で濡れた左手で、寝間着の胸元をぎゅっと握っている。
彼女の意図は分かる。汚れを汚れで上書きをしたいのだろう、憎むべく痴漢の精液よりも、慣れ親しんだ男の唾液の方が遥かにマシという考えには成程、賛同できた。
手であっても、エレオノールにキスをするのには違いない。愛おしい女の肌に舌を這わせる行為には変わりがない。それでエレオノールの気も晴れるというならば、まさに一石二鳥だ。
「そっか。なら、おまえの気の済むまま、感触を上書きしてやるよ」
ゆっくりとエレオノールの手を受け取ると、その中に唇を落とす。
そして、今度はやさしく緩やかに舌を這わせた。



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