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義務教育を終えてない方はご遠慮ください。
Unbalance.
20. Crack. - 5 -
エレオノールはその日、ずっと手が寒かった。
こんなにも冷たい思いをしたことなんて今までなかった。
風邪を引いてしまうと思った。
悴む自分の冷たい手を自分で擦って温めながら考えた。
この人は仕事で一緒に居るだけ。
仕事だから、子どもの私に良くしてくれただけ。
あやしてくれているのだ、私を。
自分ではどんなに大きくなったと思っていても、この人にとっては所詮『ガキ』でしかない。
この人は大人。私は子ども。
やさしくしてくれたのも、笑ってくれたのも、手を繋いでくれたのも、温めてくれたのも全部全部、仕事だから。
私が想うようには、私を想ってはくれない。
私の想いは届かない。届いてもきっと邪魔。
『恋人』に会うために私が邪魔なように、私の心もきっと邪魔。
邪魔なのだ、私は。
『仕事』でなくなれば、この人は清々したと言って躊躇なく去っていくのだろう。
「エレオノール、幸せになれよ」
そう一言、言い残して。振り返りもせずに、私の心を引き裂いて。
だからエレオノールは、初めて鳴海を『兄』だと思おうとした。
ギイに寄せる想いと同様に鳴海を見ようとした。
それはきっと簡単なこと。
鳴海のことを考えなければいいだけなのだから。
けれどそれは無理だった。
最初から分かっていた。自分を誤魔化すことなど出来ないことも、鳴海を心から締め出すことが出来ないことも。
激しい独占欲がエレオノールの中に逆巻いて、狂おしい葛藤の末に彼女はある行動に出ていた。
昨夜、鳴海の『恋人』が来ただろう時刻に、エレオノールは鳴海の部屋の前に丸くなって座り込んでいた。
薄暗い、肌寒い廊下に鞠のように丸くなって屈み込んでいた。
今夜も『恋人』は鳴海の元を訪れると言った。間もなく来るだろう。
こんなところで何をしようと言うのか。
部屋に入る前に、鳴海の『恋人』を追い返そうとでもしているのだろうか?
泣いて縋って、鳴海に「この人を追い返して」と懇願するつもりなのか?
こうしていれば鳴海の同情が引けて、『恋人』よりも自分に手を差し伸ばしてくれるとでも想っているのだろうか?
自分には今何もする気力はないし、鳴海だって『恋人』を優先するに決まっている。
見っとも無いのにも程がある。
こんなところに居ても何もできない、何も変わらないのに。
でも、何もしないではいられなかった。
何らかの形で足掻かずにはいられなかった。
零れそうになる涙を堪えて、暗い感情で破裂しそうな心を抱えて、エレオノールはじっと膝小僧に額を押し付けていた。
コツコツと赤い足音がする。
それはどんどんとエレオノールに近づいて、その目の前でピタリ、と止まった。
「何をしているの、お嬢ちゃん?子どもがお布団に入る時間はとっくに過ぎているわよ?」
エレオノールはほんの少しだけ顔を上げた。
女のきゅっとしまった足首が目に入る。
「風邪を引いても知らないわよ?早くベッドに行きなさいな」
帰って!エレオノールはそう叫びたかった。
ナルミお兄ちゃまは私のよ!、と。
言えなかった。
エレオノールは悲しげに目を伏せる。
女が呼び鈴を押すと鳴海が扉を開けた。
エレオノールは鳴海に視線を向けることが出来なかった。
鳴海はそんなエレオノールを見て、辛そうに眉間に深い皺を寄せたが、鳴海はそこにエレオノールが居たことを知っていたようで、特に驚いた風もなく
「自分の部屋に戻れ」
と言っただけで、女を部屋に招きいれると鍵を下ろした。
エレオノールは更に強く膝に頭を擦り付けると、もっとずっとぎゅうっと硬く丸くなって、静かに肩を震わせた。
しばらくして始まった『会話』は昨日よりもずっと大きなものだった。
女はワザと大きな声で『話して』いるようで、そして鳴海もそれを止める気はないようで、エレオノールは両手で耳に蓋をして時が流れるのを忍耐強く待った。
2時間、3時間、それくらいの時間が経った。エレオノールはずっとその場に蹲っていた。
時々彼女の傍を他の客が通り過ぎていったが、皆、暗闇に蹲る子どもを薄気味悪く思ってか足早に通り過ぎるだけだった。
再び扉は静かに開いた。
エレオノールはその物音にびくっと身体を揺らしたが、出てきたのは女だけだった。女は満足げな様子で乱れ髪を掻き上げながら扉を閉める。
「まだ居たの?困った子ね」
女はエレオノールのすぐ隣にしゃがみ込んだ。その動作がエレオノールに女の匂いを運ぶ。大人の女の匂いに混じって鳴海の匂いがしたので、エレオノールはそれに嫌悪を感じ、顔を背けた。
「よっぽど『お兄ちゃん』が好きなのね、あなた」
女が可笑しそうにクスクスと笑う。
「彼は『兄妹』って言い張るけれど血は繋がってないんでしょう?見るからに違うものね」
薄闇の中にもキラキラと光を放つようなエレオノールの髪を女は一すくいした。
エレオノールは女に髪とはいえ触れては欲しくなかったが、ここで振り払うのも子どもっぽいような気がしてグッと我慢をした。
「あなたは『恋人』なんでしょう?お兄ちゃまの」
エレオノールは囁くように訊ねる。
「恋人?ふふっ、恋人と言えばそうかもねぇ。でも、安心してよ。私が『あなたのお兄ちゃま』の『恋人』なのは今晩限りよ。充分楽しませてもらったわ」
「今晩……?どういうこと?」
「子どものあなたは知らないのかもね。私は男の人にお金を払ってもらって、しばらくの間だけその人の恋人になる商売をしてるのよ」
エレオノールは潤んだ瞳を女に向けた。
その顔は恋に苦しむ女の顔で、子どもの顔にはもはや見えなかった。
「あなたも彼の『恋人』になりたいの?だったらもっと大きくならないとねぇ。せめて後、5年…6年。彼、『胸が大きくて髪の短い女が好み』って言ってたわよ?」
エレオノールは再び、額を膝につけた。
長い。
明日にでも大人になりたいのに!
鳴海に釣り合うだけの身体が欲しいのに!
エレオノールが真剣に鳴海への恋に苦しんでいることが女に嫌と言う程に伝わった。彼女も同じ『女』だから、そしてこんな商売についていると誰かを好きになってもまともな恋をするのが難しい身の上だったから、報われないかもしれない恋心に苦しむ気持ちは嫌というくらい知っていた。
己の置かれた状況に「恋なんて」と興味のないように言いながらも、幾つになっても恋を追いかけてしまうのが『女』なのだろう。
どんなに小さくても『女』のひたむきな恋情を茶化す気にはもう到底なれず
「頑張りなさい。諦めたらそこで終わりよ」
と女は一言残し、その場を立ち去っていった。