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鳴海がテント裏で黙々と仕事に勤しんでいると表の方からけたたましい、いかにもエンジンのデカそうな車の止まる音がした。無意識のうちに、鳴海の鼻の付け根に皺が寄る。ただでさえ仏頂面の顔が傍から見れば『面白くねぇ!』と書いてあるように見えるということに鳴海自身は気付いていない。
『面白くない』原因。
それは大サーカス、シルク・ド・メガラニカの花形スター、リシャール・ベッティーの到着。
仏頂面のジェラシー。
リシャールは「会いに行くぜ」の言葉通り、大阪公演の間中、ヒマさえあれば和歌山で興行をしていたエレオノールの元に足繁く通っていた。彼女とあの新入りの大男の間には何かある、それを踏まえた上で、それはそれ、自分は自分として時間があけばエレオノールに熱烈なアピールをするために会いに来ていたのだ。
ノリ・ヒロ・ナオタはリシャールのような非の打ち所のない男がエレオノールを口説きにやってくるのは歓迎せざるところなのだが、来るたび来るたび気前よくアルコールの差し入れをしてくれるので、正直憎めない。性格も明るく気さく、一緒に飲んでも楽しいヤツなので、はっきり言って同じサーカスにいる、あの新入りよりはよっぽど彼らにとってはウェルカムなのだった。
それでも、リシャールがエレオノールに何かしら甘い言葉を吐いたり、手でも握ろうものなら3人で激しく牽制する。
エレオノールもまた、リシャールの言葉に色よい返事を返すこともない。
だからと言って、めげるリシャールでもなかった。
メガラニカが次の公演先に移動しても、仲町サーカスが仕事を求めてあちこちを流離っても、その都度リシャールはエレオノールの元にやってくる。
そして今日もまた、愛しのエレオノールに会いにやってきたのだ。
鳴海がエレオノールを見つけて仲町サーカスに潜り込んだのは海風も冷たい真冬のことだった。
それが今ではまもなく間逆を迎えようとしている。
このほぼ半年間、彼は半月に一度は通ってきていたのだ。
よく手懐けられた毛並みのいい犬だな、まるで。
鳴海は思う。
あの女もよくあそこまで手懐けたもんだよ。
まあ、何かを従わせる、傅かせる、なんてこたぁお手のモンだろうがな。
数多の自動人形を跪かせ、その間をゆっくりと歩くフランシーヌ人形のイメージが脳裏に浮かび、鳴海はケッと悪態をついた。
リシャールの心づくしの並ぶ夜の宴会に鳴海が顔を出したことは一度もない。
夕食も早々に、自分の寝床に引っ込んでしまう。
それを誰も気に留める者はいないが、エレオノールだけが気遣う表情を浮かべ何やらと声をかけ、鳴海はけんもほろろな態度でその話を打ち切る。
リシャールがいつ来てもその繰り返し。
リシャールはふたりの関係にまったく進展がなく、それもエレオノールの片想いで男の方はむしろ彼女を嫌っていることが明確だったので内心とても喜んでいた。熱意と誠意を見せ、傷ついた彼女の心を受け止め温かくやさしく癒してあげる、時間がかかってもそれが最善の道だろう。
今は片想いに夢中になってそれ以外の男には目もくれない感じだけれど、次第に自分に冷たい男よりも包容力でもって自分を温めてくれる男に寄りかかることの安らかさに気付くのも時間の問題。
そう思っていた。
しかし、タイムリミットがあった。
それはメガラニカの日本公演の終了――――。
半年間あれば、エレオノールを落とせると思っていた。
リシャールにはその自信があった。
これまでどんな女性だって口説いてベッドに誘うのに半日とかかったことがないのだから。
それなのに……エレオノールは落ちなかった。
リシャールはこれから空港に向かい、フランスに帰らなければならない。
今度は本国での長期公演の開幕だ。
リシャールはテントの裏の人気のないところにエレオノールを連れてきて、これまでに幾度となく口にしてきた言葉を繰り返す。
「しろがね、オレと付き合ってくれ。何度も言うがナカマチの皆さんも一緒でいいんだ、だから…」
『この男も懲りねぇな』
ふたりから少し離れたところで仕事をしていた鳴海はそう思った。
別に聞き耳を立てているわけではない。
鳴海が先に仕事をしていた場所の近くでふたりが勝手に話し出しただけなのだ。
エレオノールも人形は人形らしく、もっと合理的に物事を判断すりゃいいんだ。
こんな貧乏サーカスをやっているよりも、大サーカスに行ったほうが芸人は日が当たるだろう?
まあ、メガラニカで年配組にどんな仕事があるかは知らねぇがな。
それなのに、どうしてか断り続けている。
仲町サーカスの皆の、仲町サーカスが例え貧乏サーカスでも潰したくない、愛しているというのは人としての情だろう。
人形に情なんてものがあるわけねぇのに。
「リシャール、ごめんなさい」
『ほらな。エレオノールは断った』
「しろがね、オレはずっとおまえのことを愛しているんだ」
ふん。鳴海は鼻を鳴らした。
仕事をしていた手元が止まっていることに気付かない。
「リシャール、ありがとう。でも私は…あっ」
エレオノールの最後の「あっ」に鳴海の肩がぴくっと、ほんの髪の毛一筋ほど動いた。
どうやらリシャールがエレオノールを抱き締めたらしい。
『……』
「しろがね…愛しているんだ…」
「リ、リシャール…」
「オレはもうフランスに帰らないといけない。しばらく、おまえに会えない…
オレはその前におまえに“Oui”と言ってもらいたいんだ」
「リシャール、私は」
『“Non”、って一言、言やぁ済むだろが』
鳴海はイライラした。
どうしてイライラするのか、理由はよく分からない。
エレオノールはどうも、なるべくリシャールを傷つけずにすむ上手い断り方を探しているらしい。
さんざん、人間を傷つけてきた人形が、何を男ひとりの心を気遣ってやがる?
このイライラはさっさとはっきりとした返事をあいつがしないのを聞いていてもどかしいからだ、鳴海はそう考えた。
「そんなに……あの男が好きなのか?」
リシャールはエレオノールの耳元で小声で囁く。
エレオノールはこくんと頷いた。
密着した状態で囁き合われたらいくら常人の5倍の聴力とはいえ、ヒソヒソとしか聞こえない。しかもボディランゲージだけだと、話を背中で聞いている鳴海には何にも分からない。
『しろがね』は感覚が鋭くて頑丈なだけでエスパーではないのだ。
「あの男はおまえを愛するとは思えない」
「いいの、それでも。私は彼を心から愛しているのだから。私は彼に何の見返りも求めてはいない」
「本気なんだな」
『クソっ!何にも聞こえやしねー!』
鳴海は尻の辺りがどうにもこうにも落ち着かない。
エレオノールがリシャールに何と言っているのか、気になって仕方がない。
そんな自分にふと気付き、別にあいつがどこの誰とくっつこうがかまわねぇじゃねぇか、と独りごちた。下唇が突き出しているのに、気付いていない。
「だから、リシャール」
エレオノールのきっぱりした声が突然聞こえて鳴海はパッと眼球だけを声の方に向けた。
「何度言われても、私の答えは“Non”。どうか、許して欲しい」
「そうか…」
鳴海の口から大量の息が吐き出された。
どうも知らないうちに呼吸を止めていたらしい。
「分かってもらえた?この腕を解いて…」
何?あの野郎はまだ抱き締めていたのか?
鳴海はキッと瞳を細くして、
いやいや、別にあいつが誰と抱き合おうがオレには関係ねぇよ、とまた独りごちた。
まあ、これで話の決着はついた。
鳴海がそう思っているとリシャールはさらにエレオノールに押し込んだ。
なんて押しの強い男だろう。
「しろがね、最後のお願いがある。一度でいい。オレにベーゼを許してくれ」
「え?」
『はあ?』
「一度、それだけで、オレはおまえを諦めてフランスに帰るから…」
「リシャール…」
おい、そんな言葉に絆されてホントに許す気じゃねぇだろーな?
鳴海のイライラは募る。
リシャールは一度のくちづけでエレオノールの心をほぐすテクニックを持っているという自負があった。だから唇さえ重ねることができたなら、彼女はもっとその先にある刺激を求めてくる。
そうすれば、自分の勝ちだ。
「や、やめて…放して…!」
「愛しているよ…しろがね、Oui…?」
エレオノールは、もちろんくちづけを交わしたい。
彼女に愛する人とくちづけた経験は一度もないけれど、きっとそれは素晴らしい心地がするのだろうといつも考える。唇でお互いの唇を愛撫する、唇を重ねて愛を交わす、それがどういったものなのか、想像もつかない。
だから、エレオノールはキスをしてみたいと思う。
だが、それは、どんなに自分に憎悪を向けているのだとしてもただひとり!カトウナルミだけなのだ!
「私が欲しいのはあなたからじゃない!リシャール!Non!!!」
がらがらがらがらがらがしゃん!
どんがらぼこべん!
抱き合うふたりの背後で騒々しい音を立て、テント裏の道具が大雪崩を起こした。
リシャールとエレオノールはバッと身体を離した。
条件反射で振り返ると、そこには散らかった道具の後片付けを始めた鳴海がしゃがんでいた。
「悪ぃ…邪魔したな。オレにかまわず続けてくれ…」
続けろ、と言われても、もうあのシチュエーションには戻れない。
「おい!今の音は何だ!」
「ああ、何やってんだよ、新入り!」
「つーか、そこで何してんだ、リシャール!何、しろがねの身体触ってんだよ!」
「オレたちの前でしろがねを口説くことは絶対に許さねー!」
物音に駆けつけてきたノリ・ヒロ・ナオタがリシャールを波状攻撃する。
この3人はエレオノールをめぐるライバルだけれど、こういうときの団結力はものすごい。
やんやと攻められ、リシャールはタジタジと後退した。
「何をやっとるか、新入り!道具は大事に扱えといっつも言っておるじゃろが!」
「スンマセン」
どなりん爺に叱られながら、道具の後始末をする鳴海の口角が長い髪の影でほんの少しだけ持ち上がっていた。
エレオノールがリシャールを見送ってテント裏に戻ってくると、鳴海がひとりで片づけをしていた。
その大きな背中にしろがねは無言の質問を投げかけてみる。
もしかして、わざと道具を倒してくれたの?私が困っていたから?
エレオノールは鳴海にそうっと近づくと声をかけた。
「あの、カトウ…さっきはありがとう…」
「…オレは何にもしてねぇ。これはオレのドジだ。おまえに感謝される筋合いはねぇ」
「私、手伝いますから…」
「傍に寄るな!」
鳴海は憎悪に満ちた白眼視を向ける。
エレオノールの足はその場に張り付いた。
「おまえの手を借りたいとは思わん。とっとと失せろ!」
「はい…。でも、ありがとう」
エレオノールは静かに退散した。
彼女の気配が全く感じられなくなってから、鳴海は手を止めると空を見上げた。
眩しい。
青い空に、白い雲がひとつだけぽこんと浮かんでいる。
それを見上げるその瞳にはもはや憎悪は浮かんでいない。
鳴海の心にも、どこにもイライラはなかった。
何だか奇妙に清清しい。
「こりゃ、新入り!終わったのかっ!!」
どなりん爺に発破をかけられて立ち上がる鳴海の顔からは『面白くねぇ』の文字はすっかり消えていた。
End
postscript 仲町サーカス時代の鳴海。ハイジャック事件を境にして彼のしろがねに対する気持ち、というのは少しずつ緩んでいっていると思います。しろがねを見る目がちょっとずつ変化し、しろがねの行動に今までとは違う感想を持つ。鳴海のなかで記憶の解放が始まっているのだと思います。私の話の場合は具体的な記憶、というよりは漠然とした感情のようなもの、が戻ってきています。涼子と鳴海の話もこの話もそうですが、しろがねに対し、憎悪の顔の下で辛そうな顔をしたり、ヤキモチを焼いたりしているの鳴海の中に封印されている『しろがねを愛している鳴海』です。うちの鳴海は『憎悪している鳴海』と『愛している鳴海』が常に共存状態にあります。憎悪時代の鳴海の中にも、表に出ていないけれどしろがねを想う鳴海は存在しているのです。でないと、嫌です。私は43巻通して鳴海は常にしろがねを愛しているんだ!と信じています。時間の経過と共に顔を覗かせる割合が変化していく、でも鳴海自身はその変化に気がついてない。気付いてないためにワケも分からず戸惑う。その変化に自ら気付くのは記憶が完全に戻ったとき、ですね、多分。えー…それから当て馬リシャールですが、彼のしろがねに対する気持ちも原作の中で宙ぶらりん、じゃないかと思うんですよ。絶対、大阪⇔和歌山を何べんも往復したはず。鳴海が帰ってきた日だけ、ってワケがない。猛烈アピールを繰り返したはずです。しろがねを愛しているわけだし、金もある、以前と違って自分というものに自信もある。でなければ、あんなホテルにしろがねを誘うわけがない!何あのヤル気にあふれた部屋は!なのに、最後にはミンシア姐さんとの熱愛の予感。ミンシアもいいのかなぁ…この男もエレ絡みだよ?そうでなくとも売れっ子女優と花形シルカシェンじゃ、すれ違いが多くて破局騒動がすぐに流れそうね…。長くなりました。