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灰色の段階。
***** 色相その1 煤色の闇の中に囚われたオレンジ *****
***** 舞台はローエンシュタイン。
フウがエレオノールの記憶を精査する準備を進めている。
後は彼女の目覚めを待つだけ。 *****
ローエンシュタインにあるこの屋敷に到着してから、鳴海がその部屋を訪ねたのはもう何回目になるのだろうか。
豪華な調度品に囲まれた瀟洒な一室、その中央にある大きな寝台に横たわるのはエレオノール。
モンサンミシェルから鳴海が奪還してきたフランシーヌ人形の生まれ変わり。
鳴海は背中で扉を静かに閉め、寝台から少し離れたところで足を止めると無表情で彼女の白い顔を見下ろした。
モンサンミシェルで気を失って以来、エレオノールは一度も目を覚まさない。
さすがにあそこまで身体を痛めつけられては治癒するのにも時間がかかるようだ。
だが実際は、彼女は肉体よりも心神の消耗の方がはるかに激しかったのだ。
これまでの長いエレオノールの人生において、他人、というものは彼女にとっておよそどうでもいい存在だった。己すら大事にしてこなかった彼女が、更にどうでもいい存在のために心を痛める、などということは無駄なことだった。
無駄、どころか考えも及ばないことだった。
そんなことを考えること自体が無駄だった。
それがエレオノールの90年の人生の大半を占めていた、彼女の価値観。
だのに、仲町サーカスにて勝とともに『家族』を手に入れてから、エレオノールは大きく変わった。
いつの間にか自分のこと以上に彼らが大切だった。
仲町サーカスの人々だけでなく、自分を取り巻く全ての命が愛おしいと思えるようになっていた。
その彼らがフェイスレスの手下の自動人形に傷つけられている姿を嫌というほどに見せつけられて
自分は彼らを助けることもできずにただ見ているだけ、出来ることといえば徒に心を疲弊させることだけだった。
本来は自分が守るべき勝が自分のために戦い、血を流す姿も彼女の心を打ちのめした。
もともと、それまでに鳴海から与えられていた心痛にこれらが一度に加重されて、とうとうエレオノールの心は限界を超えたのだった。
加藤鳴海。
それは彼女が誰よりも愛する、そして彼女に憎悪を向け続ける男の名前。
でも、彼と出会ったからこそ自分の命にも他人の命にも、守らねばならない価値があるのだと知った。彼と出会わなければ、エレオノールは今でも懸命に生きる命を大事に思う『人間』にはなれてはいないだろう。
鳴海は光のない冥い瞳でエレオノールを見つめる。
ここには自分とエレオノールしかいない。しかもそのエレオノールの瞼は閉じられたまま。
他には誰もいない。部屋に控えるパンタローネとアルレッキーノは初めからものの数に入ってはいない。誰も見ていないからこそ、そしてエレオノール本人も彼を見ていないからこそ鳴海の瞳の奥にはエレオノールに対する率直な感情が揺らいでいた。そう、驚くことに、サハラ以来その瞳を焦がしていた憎悪がめっきりと影を潜め、それ以外の様々な感情の入り混じった、何とも奇妙な色。
鳴海自身、己の心の変化には戸惑うばかりで、どうしてこんな気持ちになってしまったのか、彼なりにその答えを探していた。
そしておそらく、その答えはいまだ眠るこの女の中にあると、うすうすながら鳴海は考えていた。
***** この女は人形の生まれ変わり。
その中には確実に人形が居る。
でもその心が人形に支配されているかどうかが分からない。 *****
ようやく目を覚ましたエレオノールをフウの元に送り届け、鳴海はエリとともに部屋を後にした。
エレオノールの記憶に興味がない、そう言った自分の言葉も、本当のところ真意がどこにあるのか、鳴海自身分からなかった。ただ、確かに言えることとしては、エレオノールの記憶をのぞいたらもう憎しみの顔を作ることが出来なくなる、そう鳴海の本能が訴えたということだ。
エレオノールの記憶をのぞき、その心の中にフランシーヌ人形がいた方がいいのか、いない方がいいのか。
どちらが鳴海にとって幸いなのか。
エリは今回、一年ぶりに鳴海と再会したとき、実は「彼は別人ではないのかしら」と思ってしまった。
何故なら一年前の、エリの知る鳴海はもっと屈託なく明るく笑う男だったから。
今の鳴海は何か胸の中に大きな爆弾を抱えているような雰囲気を漂わせて、かつての天真爛漫さがどこにも見られなくなっていた。
鳴海は影を帯びて暗くなった。
大人びた、とか、成熟した、とか、そういう訳ではなく、自らではもう抗う術のない何かに心を支配されているような、悲運の女神に魅入られているような、そんな印象をエリは受けた。
以前、鳴海に愛を打ち明けたエリは、こうして再会してみて、改めていまだ自分が鳴海を想っていることを実感した。だからといって、その際、きっぱりと鳴海から他に想う人がいるのだと告げられたエリは今更この恋心をどうこうしようという気は全くなかった。それには公女としてのプライドも無くは無かった。
だけれど、自分が想いを寄せる鳴海が全世界の悩みや苦しみを一身に受けている表情しか見せないこの現実に忸怩たる思いを隠せない。
また、あの輝くような笑顔を取り戻してもらいたいと思った。そう、例えれば南国の太陽をその身いっぱいに受けた色鮮やかで味の濃い、大きなオレンジを思わせる笑顔を。
そのためには、鳴海自身が少しでも幸せにならなければいけないのに、今の彼では個人の幸せなど思いも寄らないのだろう。
ならばせめて、彼が最悪の結末を迎えることだけは回避させてあげたい。
何故ならば、エリは鳴海をまだ愛しているから。
「ナルミ」
難しい顔をして黙る鳴海にエリが話しかけた。
「なんスか、エリさん」
鳴海が顔を上げて目を合わせたエリは、複雑な感情の混じった笑顔を浮かべていた。
「ナルミ、ひとつ訊きたいことがあるのです。よろしいですか?」
エリは窓際に寄ると、眼下に広がる美しい英国風の庭園を見渡した。
「ナルミ…あなたはエレオノールさんを憎んでいるのですか?」
エリの質問に鳴海の肩がぴくりと震える。
「当たり前っスよ。あいつはフランシーヌ人形の生まれ変わりなんだ。今、世界を混沌に陥れた原因なんスよ?」
「フランシーヌ人形……ゾナハ病を撒き散らしたサーカスの首領ですね」
「あいつはフランシーヌ人形の溶けた生命の水を飲んだんだ。だから、あいつはフランシーヌ人形の生まれ変わり、違いますか?あいつのせいで子どもたちは幸せを毟り取られ、しろがねの仲間たちは人間らしく生きることを放棄して死んでいった…」
「それらが、エレオノールさんの責任だと?」
「……」
エリの問いに即座に肯定できない鳴海がいた。
ほんの少し前の鳴海なら有無を言わさず、首を縦に振っていただろう。
フランシーヌ人形の犯した業はフランシーヌ人形にある。だけど…。
「『フランシーヌ人形の生まれ変わり』。生まれ変わりといっても、エレオノールさんは『フランシーヌ人形』そのものではありませんね」
「エリさん」
「エレオノールさんの中にフランシーヌ人形が目覚めているのかどうかは、フウさんが結論を出してくださるでしょう」
長い沈黙の後、鳴海は言う。
「いずれにしても、この世界を混乱に導いた原因はエレオノールにあるんだ。オレは必ずあいつに責任を取らせる」
「それは、殺す、ということですか?」
エリが、そんな言葉は本当は口にも出したくない、というふうに眉を顰めた。
「あいつに責任をとらせること、それがオレの義務だ」
鳴海の視線は窓の遠くに据えられて、その両の拳はぐっと握られる。
エリはそんな鳴海の様子をじっと見遣った。
「何だか……苦しそうですね?」
「え?」
「ナルミ…一年前、私が別れ際にあなたに求愛したこと、覚えていますか?」
「な?何を突然、エリさん」
鳴海は心持ち赤くなってうろたえる。
エリはにっこりと微笑んだ。鳴海は初めて会ったエリの、マネキンのような作られた笑顔を思い出す。
今ではこんなに明るい笑顔が当然のようにこぼれることが、鳴海は嬉しかった。
「覚えていますよ。エリさんと踊って……ギイたちが楽器を演奏してくれて……そう、ルシールも……」
ルシール。懐かしい名前に鳴海の頬が緩む。
「そうですよ。あなたは無礼にも私の求愛を断ったのです」
「そ、そうでした、スンマセン…」
頭をガリガリと掻きながら謝る鳴海をエリはクスクスと笑った。そしてふいに黙ると、少し今までよりも硬い声で言った。
「ナルミ…あなたは、何と言って私の求愛を断ったのか、覚えていますか?」
「は…?何でまた藪から棒に」
「私の求愛をあなたは何と言って断ったのか、言ってみてください」
「……」
鳴海はエリに言われたがまま、記憶を辿ってみた。特にエリの言葉の裏の意図を考えてみることもしなかった。
エリさんは確か、オレが小国の貴族になる夢をみたことはないかとか…外国人が一族に入るのがどうこうと言って……
だけどオレは…。
オレは……。
次第に、彼の瞳に驚愕の色がはっきりと浮かぶのをエリは確実に見て取った。
「思い出しましたね、ナルミ」
鳴海はふいっと、エリから視線を逸らした。眼球が忙しなく動いている。顔色も蒼白だ。
「あなたはまだ事故で失った記憶を取り戻せてはいませんね?だからあなたとエレオノールさんの繋がりも忘れたままなのでしょう?あなたはこう言いました。『銀色の目で、銀髪の女だった』、『いつかはオレが笑わせてやりたいと思っている』と。その人は、あなたが笑わせてあげたかった人はエレオノールさんですね?私は一目見てすぐに分かりました」
「ちっ、違…!」
「他に誰が考えられますか?」
エリが威厳をもってきっぱりと言い切ったので鳴海は続く言葉を無くした。さすがは一国を仕切る公女。
「あなたの失われた記憶の中には必ずエレオノールさんがいるはずです。そしてあなたはエレオノールさんを想っていたはず」
「いや、エリさん、オレは…」
「まだ否定するのですか?よもや、この私の求愛を根拠のない絵空事で断った、というのではないでしょうね?もしもそうなのだとしたら、私の誇りは深く傷つけられます。決して許されることではありません」
「エリさん、ちょっと待ってくれよ。オレは絶対に嘘はつかねぇ。ただ、今は、その記憶が…ねぇんだ」
困惑の色を隠さない鳴海に、エリは口調を緩めた。
「記憶のないあなたは、記憶がないからこそエレオノールさんに『責任を取らせる』ことができるのでしょう。でもこの先、エレオノールさんに『責任を取らせた』後であなたの記憶が戻ったら、あなたは自分のことを許せますか?」
果たして、自分の一番大事な人を殺した自分を真っ直ぐに見つめることができるのですか?
例えそれに大義名分があるのだとしても。
「…では、私は仕事に戻ります。ナルミ、よく考えてみてくださいね」
きちんと考えて。
決して間違った道に足を踏み出さないように。
エリは先程よりもずっと険しい顔で窓の外を見つめる鳴海を残し、その場をゆっくりと立ち去った。
End
postscript ローエンシュタインでの鳴海の記憶を問うシリーズです。このサイトを覗いてくださるような方々には、『鳴海の記憶がいつ戻ったのか?』、については一薀蓄があるでしょう。まあ、これは私という一ファンの一解釈としてご笑納くださいませませ。この回では鳴海にエリ公女をふったときのセリフを思い出させたかったんです。しろがねや勝の顔を忘れたとしても(もともと儚い記憶の欠片でしたから)、さすがにエリ公女に話したことは覚えてるでしょうと。ローエンシュタイン辺りから原作の最終回へ向けてのスピードがぐんぐんと上がっていくので、その隙間を縫っての鳴海の苦悩、コンセプトは『鳴海よ、しろがねについて考えろ!』です。原作上のアノ頃の鳴海はね、顔や目で時々語るだけでちっとも心情を吐露してくれていないんですよ。藤田先生は「ファンなら分かってね」と仰っているのかも知れません。鳴海が悩んでないわけはないんです。絶対に心中の葛藤は凄まじかったと思うんです。何しろあの鳴海ですよ?絶望でトチ狂っちゃっているとは言え、考えを秘めるタイプじゃないのに沈黙を守っている、その自分の感情の殺し方たるや、壮絶だと感じるのは私だけ?いずれにせよ、妄想で縫ったくられたお話には違いないです。