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とうとう、最後の夜が更けてしまった。
あなたを間近に見られる、最後の夜が。
Shepherd Moons.
***彷徨う羊飼いたち***
しろがねは通路を挟んだ窓の向こう、景色を切り抜いた四角の中でじっと張り付いたまま動かない月をぼんやりと眺めていた。
流れては消える車窓の景色で唯一、視界から消えることのない昇って間もないその月は、空に横たわる三日月。
しろがねはそっと、視線を自分よりも1つ斜め前の、月を望む側の座席に腰を下ろす後姿に移した。
見ていることを気付かれぬよう、身じろぎもせず、その背の高い大きな姿を熱く切なく見つめる。
もう、まもなく、彼を瞳に映すことが叶わなくなる。
どんな姿でも鳴海を脳裏に焼き付けておきたかった。例え、後姿でも。
長い黒髪の艶や、耳の形、窓に顔を向ける首の角度。
それくらいしか、しろがねの瞳には映らない。
しろがねは視線をそっと外し、膝の上の自分の握り拳を見て、再び月に目を遣った。
もうずっと、この動作を飽きることなく、しろがねは続けていた。
鳴海との間には会話もない。聞こえるのは機関車の走る音だけで、その他には何も聞こえない。
鼓膜を穿つような沈黙がふたりの間には存在する。
しろがねはまた、鳴海に視線を移した。
鳴海の記憶は戻っていた。それを聞いたときのしろがねの胸は高鳴った。
何故なら、鳴海と再会したときから彼の記憶さえ戻れば、鳴海は元の鳴海に戻ると固く信じていたから。
軽井沢で、燃え盛る屋敷の中に消えた、あのときのカトウナルミに。
記憶さえ戻れば、鳴海は自分にあのときの笑顔を再び見せてくれる、憎しみは消え、あのときのやさしさを再び与えてくれる、そう信じていた。あのときの関係に戻れるはずだと、固く信じて疑わなかった。
あのときの自分のことを思い出してくれさえすれば……あのとき確かに、ふたりの間には堅固な絆があったのだから。
でも。
それが、如何に大間違いだったか。
それが如何に、自分の儚くて淡い願望でしかなかったか、嫌というほど思い知らされた。
記憶が戻っても、鳴海の態度は変わらなかった。
笑顔も、やさしさも、ぬくもりも、鳴海から向けられることは金輪際ないのだと、教えられた。
記憶が戻っても、やさしい鳴海は戻ってこなかった。
絆がある、と感じていたのは自分だけだった。
軽井沢のときですら、鳴海は自分との間に絆など感じていなかったのだ。
いいや、感じていたのかもしれない。感じたからこそ、『人形』と絆を一瞬でも感じたことにおぞましさを覚えているのだ。
それを証拠に、今では鳴海がしろがねと目を合わすことすらなくなった。
「私はあなたのしろがねです」
彼女がそう鳴海に愛を告白して以来、鳴海はしろがねに背中を向け続ける。
機関車に乗ってからというもの、しろがねはまともに鳴海の顔を見ていない。
私は、ナルミにとって憎悪の瞳すら向ける価値のないものになってしまったのだ。
そう思うと、心が更に痛くなる。
それが憎しみという名の負の感情なのだとしても、自分が鳴海の心をいっぱいにしていることには変わりがなかった。
突き刺さるような鋭い憎悪のこもった瞳で睨まれたのだとしても、鳴海に見つめられていることには変わりがなかった。
辛かったけれど、歪んでいるとは思うけれど、鳴海と憎しみで繋がっていた。
それが、今はない。憎む価値もないもの、それが自分なのだ。
鳴海は宇宙に赴いて、二度と帰らない身。
そんな彼にとって、本当に無意味なもの、それが「エレオノール」の名前を持つ女なのだ。
ゾナハ病の止め方も知らない人形なんて、ナルミにとって無価値以外の何モノでもない。
憎まれていた方がマシ、なんて考えるときが来るなんて思ってもみなかった。
しろがねは静かに自嘲して、また月と瞳を合わせた。
憎まれても、あなたにとってどうでもいい存在なのだとしても、私はあなたを愛している。
この一瞬一瞬、あなたにのめり込むように、あなたを愛している。
私の命はあなたのもの。
私のこの身と心はあなたに捧げたもの。
あなたにとって必要のないものでも、私はあなたのもの。
だけど、そのあなたがいなくなる。
この世から消えてしまう。
そうしたら、私がこの世に存在する意味も消える。
あなたがいないのに、どうして私だけ、生きていける?
勝はもう、自分の手を離れた。勝を守ること、それが自分の使命だったのに、いつの間にか立場は逆転していた。
しかも、ずっと勝が自分のために血を流し、フェイスレスの自動人形と戦い続けていたことに全く気がつかなかった。
本末転倒だ。
自分は戦う女だったはずなのに、永い人生を戦いに明け暮れて生きてきたはずなのに、気がつくと戦いに鈍感になっていた。
独りで、勝ち名乗りを上げることが出来なくなっていた。黒賀村でも、モンサンミシェルでも。
心が違うものに大きく占められるようになっていたから。
カトウナルミに。
いつの間にか、『戦う女』からただの『女』になっていた。
しろがねは、鳴海が宇宙から生還する可能性がゼロだと確定されたら、自分の生を止めようと心に決めた。
しろがねは、横たわった三日月は笑っているように見える、と思った。
『笑うこと』。
一度でいいから自分で笑ってみたかった。
お坊ちゃまやかつてのナルミのように、口の端を持ち上げてにっこりと。
でも、結局は私は人形だったのだ。最初から最後まで。
ナルミに想われる価値もない、人形。
フランシーヌ人形の記憶はどこにも見つからなかったけれど、私は人形の心を持って生まれたのだ。
笑えるはずも、ない。
しろがねは今度は自分のすぐ傍の窓の外に目を向けた。
こちらには月がないため、より星星が濃く煌めいている。
切り抜かれた黒い空にきれいな星……。
しろがねは既視感を覚えた。何だろう、これを何時か何処かで見たことがあるような気がする……。
四角い額縁が円になる。
まるで井戸の中。
薔薇色がかった銀色の水面越しに赤ちゃんが笑っている。
その向こうにきれいな星空。
次第に視界がぼやけてゆく。
ああ、
なんていい気持ち………。
「はっ!!」
しろがねは息を呑んだ。動悸が激しい。
今のイメージは一体、何?
私のものではない、誰かのイメージ。
しろがねは胸の真ん中を両手で強く押さえると、乱れた呼吸を整えるために必死で唾を飲み込んだ。
「どうかしたのか?」
その低い声にしろがねは顔を上げる。声の主は振り返ることもせず、背中でじっとしろがねの様子を窺っている。
自分のものではないイメージが脳裏を過ったと知ったら、鳴海はきっともっと自分を嫌がるだろう、しろがねはそう思い、
「何でもありません、少し…夢見が悪かったものですから…」
と嘘をついた。
「ふん…人形のなりそこないの見る悪夢か……静かにしてろ、気が散る…」
「はい、すみません…」
しろがねは素直に謝る。
ちっ。
鳴海の舌打ちが聞こえた。
背中を向ける鳴海の顔が苦しそうに歪んでいることなど、しろがねには分かりようがない。
機関車の走行音だけが物悲しく歌っている。
しろがねはまた、そっと鳴海の後姿を見つめた。
もうこのまま、ナルミとの関係が修復されることのないまま、今生の別れが訪れるのだろう。
それでもいい。それでも、かまわない。
あなたが私を嫌いでも、私はずっとあなたが好き。
だから、あなたを守るから。
この先、必ずやってくるであろう自動人形の追っ手から絶対にあなたを守ってみせる。
それが、それだけが、私に残されたあなたのためにしてあげられる唯一のことだから。
この命を、なげうったとしても。
しろがねは月を見上げる。
どうか。
私の代わりに宇宙へと旅立つナルミを最後まで見守ってください。
しろがねの瞳には全ての運命を受け入れた、哀しくも力強い光が宿っていた。
End