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爽やかな翠の風が吹く。
やさしくて、温かくて、なんて心地いい風だろう。
彼は風を胸いっぱいに吸い込んだ。
豊穣な黒くて湿り気のある土の匂い
甘く芳しい花の香り。
ああ、何と清々とした気分だろう。
こんな気分を彼は感じたことがこれまでなかった。
幼い頃から不治の病に苦しめられて
その不治の病が万能薬で治った刹那
自動人形を破壊する運命に雁字搦めにされて。
魂のみの存在となって初めて清清しさを知るとは皮肉なものだな。
彼は生前と同じシニカルな、それでいてどこか達成感の滲む笑みを美しいその口元に浮かべると、目の前に伸びる小道に歩を進めた。
足を踏み出すたびに、グランドカバーの草々から得も言われぬ芳香が立ち上る。
クローバーに混じって生えている、クリーピングタイムやローマンカモミールなどのハーブの香り。
風が揺すると道端のラベンダーが癒しを振り撒く。
花やハーブの香りに取り巻かれて、魂が内からも外からも清められていくような心地がする。
梢からキラキラと光が降るような木々のトンネルを抜けると一軒の小さな家の前に出た。
その家のテラスには年季の入ったガーデニングテーブルとチェアが設えられてあり、そこでひとりの老婆が彼に背中を向けてお茶を飲んでいた。
「ギイ。意外と早いお着きじゃないかえ?」
老婆が振り向きもせずに声をかけてきた。
「僕は僕の役割をちゃんと終えてきたからね。満足さ、ルシール」
ルシールが振り返る。
生前の彼女が見せたことのない親しみのこもった笑顔。
ギイもまた柔らかく微笑んでみせた。
「あなたの心象風景はとてもやさしいな、ルシール」
「私の心がやさしいのはそんなに意外かえ?ギイ」
「そんなことはないよ。『しろがね』であったときすらもあなたはやさしかったよ」
「気持ちの悪いことをお言いでないよ」
ルシールがほほほ、と笑う。
ギイはルシールの向かいの席に腰を下ろした。
「私は紅茶を飲んでいたんだけどね。あんたが来たなら久し振りにワインでも飲むかねぇ」
テーブルの上のティ-セットは魔法のように消え去ると、瞬きのうちに年代もののワインとアンティークなワイングラスへと姿を変えた。
ギイがワインのボトルとコルク抜きに手を伸ばした。
「ふふ…魂のみとなっても尚、ワインを楽しめるとあっては…嬉しい限り」
「相変わらずだねぇ、あんたは…」
ポン、とコルクの栓が抜ける音をさせると、流れるような手つきで神の血をグラスに注いでいく。
ギイとルシールはワイングラスを手に取ると、その縁を軽く合わし、癒しの音楽を奏でた。
only time.
◆ギイとルシールの再会を祝して、乾杯!◆
「もっと、先に進んでいるのかと思ってたよ、ルシール」
ワインを一口、口に運んだギイが言った。
「もうとっくに…魂の安息所にいるのかとばかり」
「亭主や息子には会ってきたよ」
ルシールはにっこりと笑う。
「でもね、どうしても見届けなくちゃならないことがあってね……ここまで戻ってきたのさ」
「……」
申し訳なさそうに眉を顰めているルシールの顔なんて、長い付き合いのギイでさえ見たことがない。
それどころか、感情の図れるルシールの顔なんて、何だか奇妙な感じだ。
「途中退場して、あの男にみんな押し付けてしまったからねぇ…」
ギイは残り少ないワイングラスをのぞき込む。
「そうだな……自動人形とゾナハ病をこの世から消す人形破壊者の責任を……あいつ一人に押し付けてしまったな」
キュッとグラスを空にすると、ギイは二杯目を注いだ。
最後の『しろがね』。
白銀に支配されなかったただ一人の『しろがね』。
『しろがね』なのにマリオネットを操らない『しろがね』。
自然が与えた己の体躯のみを武器に戦う、何もかもが型破りの、真っ直ぐな気性の男、カトウナルミ。
「ここからは『下』がよく見えるな」
「だから私はずっとここから見ていたよ。ナルミの心が絶望に囚われていく様を」
「ただ見ているだけ、というのも辛かったろう?」
「そうだね、私の声はもう、届かない」
ルシールは眉を顰めた。
「自分の持ち時間は憎むことに使うなと言ったのだけどねぇ……愛することに使うようにと、言ったのだけどねぇ…」
「あいつはイノシシだからな、走り出してと細かいことを考えられなっただけさ。あなたの言ったことはナルミもちゃんと聞いていたよ」
ギイは静かに笑い、口の端を持ち上げた。
「大丈夫。もうすぐナルミは絶望から開放される。僕たちを苦しめた螺旋を断ち切って、自分もまた幸せになる道を見つけ出すことができる」
「あんたはそんなにナルミを買っていたかねぇ?ギイ?」
「買っていたさ。確かにあいつは頑固で愚か、図体の大きな無作法者だよ。それは間違いのないことさ。でも信じられる。何だかんだ言って、僕の信頼を裏切ったことは一度だってないのだから」
そうでなければ、エレオノールのために爆発炎上する軽井沢の屋敷から助け出したりはしなかった。
エレオノールのためにナルミに最後の生命の水を与えて『しろがね』の運命に巻き込んだりなどしなかった。
すべてはエレオノールの幸せのためとはいえ、エレオノールに相応しい男でなければそんなことはしなかった。
僕はナルミを初めから買っていた。認めていたんだ。
まあ、今だから、素直に認められるのかもしれないが。
「……・」
「だから僕たちはもう少しここで、彼らを見守ろう」
僕たち自身の永きに亘った戦いが終焉する様を。
そして、ナルミとエレオノールの運命の道と道とが交わる瞬間を。
結末はもう決まっている。
だけれど、魂のみの存在になった彼らも万能の神ではない。
彼らに残された術はただ見守ることだけ。
この壮大な流れがどこに向かって流れているのかを知っているのは時だけなのだ。
それからの数日間は長かった。
ルシールはそれまでに200年も生きてきたのに、ギイがやってきてからの数日間の方がずっと長く感じられた。
ふたりは黙って、見守り続けた。
絶望と沈黙の支配する機関車での道行きも、自動人形と仲町サーカスのメンバーとの戦いも、鳴海と勝のシャトルの死守も。
「マサル…強くなったな…」
知らず、そう呟いたギイをルシールは温かく見遣る。
そうして、鳴海は地上に残り、勝はシャトルでフェイスレスのもとに向かった。
ギイは、鳴海の行動をじっと見守る。
拳はぎゅっと握られる。
鳴海がエレオノールの元に駆けつけ、その身体を抱き締め、万感の想いを込めてくちづけを交わす様を見届けると、ギイははあっと大きく安堵の息をついて、天を仰いだ。
よかった――――――!
これで何も思い残すことはない――――――!
「あんたも大変だったねぇ……ずうっと『しろがね』全員を騙し続けて……苦しかったろう?」
「ルシールはもしかして、初めから気付いていたのかい?」
ルシールと目を合わせたギイの顔は達成感、満足感、それらで光り輝いていた。
「あんたがあの子を連れてきて、初めてあったときから気付いていたよ。きっとアンジェリーナの子なのだろう、とね」
「そうか…」
「何しろ、エレオノールはアンジェリーナの幼い頃に瓜二つだった。あたしはこんなでもやはり母親なもんでね、血が、騒いだよ」
「分かっていて、僕の嘘に付き合ったんだね」
「アンジェリーナがどんな想いをエレオノールに託したのか、痛いくらいに感じたからね…。だからあんたと同じに『しろがね』の事情からはできるだけ遠ざけた。私も甘いね、総力戦のサハラにもあの子は呼ばなかった…」
「マリーやタニアは…」
「彼女たちもきっと気付いていたよ。言葉にはしなかったけれど…。アンジェリーナの赤ん坊に柔らかい石を移して持ち帰れ、なんて命を出したことを、もしかしたら負い目に感じていたのかもねぇ」
冷酷な『しろがね』に負い目を感じる、なんて感情があるかどうかは分からないけれどね…。
ふふっと、小さく笑うルシールに
「初めから、冷酷なしろがね、なんてひとりもいなかったのさ」
とギイは言った。
「ああ、でも良かった。これで僕も肩の荷が下りた。エレオノールが幸せになってくれれば……それでいい」
ギイは晴れ晴れと笑う。
「あ、でも、ルシール。あなたの孫の婿があのナルミということになるんだぞ?いいのかい?」
「困ったねぇ」
ルシールは難しい顔をする。
「私はねぇ、男の趣味は悪くなかったよ?愛人だって厳選したもんさ。全員、一角の男たちばかりでね」
「アンジェリーナが選んだ正二だって立派な男だった。文武両道で、あの『PSYGA』の創始者だ」
「それなのに、エレオノールはどうしてアレがいいんだろうねぇ…私だったら惚れないね」
「小さい頃からずっと僕を見て育ってきたはずなのに…確かに僕に匹敵する男を見つけることは困難だとは思うが…」
「あんたはそればっかりだね」
「でも、事実だろう?はっ、だから反動が出て真逆のタイプを選んでしまったのだろうか?」
「そうさねぇ…見た目からして違うねぇ…」
「無粋だし」
「乱暴者だし」
「頭は悪いし」
「学はないし」
「金もなさそうだし」
「拳法バカだし」
「腕っ節しか取り得がないし」
「脳ミソまで筋肉でできてるし」
「頭蓋骨も異様に硬くて厚くて物覚えが悪いし」
「言葉遣いは悪いし」
「礼儀を知らないし」
「考えるよりもすぐ手が出るし」
「洗練された立ち居振る舞いなんてまったく期待できないし」
「低脳ゴリラだし」
「頑固者だし」
「視野狭窄なイノシシマンだし」
「粗野だし」
「女性を悦ばす機知も話術もないし」
「アルコールも飲めないし」
「ユーモアのセンスもないし」
「人の言うことはまず聞かないし」
「すぐ頭に血がのぼるし」
「怒りっぽいし」
「単細胞だし」
「おせっかいだし」
「余計なことにすぐに首をつっこみたがるし」
鳴海の悪口がスラスラと口から出てくるギイとルシール。
その顔は何とも楽しそうだ。
その後も一緒に旅をしていたときの鳴海のエピソードが次々と飛び出して
「あいつは間抜けだから」
とか
「あの男は莫迦だから」
とか付け加えながら、鳴海について談笑する。
鳴海の話は彼らにとってとても楽しい内容らしい。
悪口が止まらない。
でも。
それでも。
まっすぐで。
やさしくて。
気立てがよくて。
子どもが大好きで。
あけっぴろげに明るく笑って。
頼りになった。
信じられた。
その途轍もない強さを弱い者を守るためだけに使う。
四肢を失い、愛する人を殺さなくてはならない境遇においても進むことを止めなかった賞賛に値する心を持っている。
誰よりも深くて広い懐を持っている。
何よりも、ナルミの傍にいることでエレオノールが心からの笑顔をこぼすことができるのならそれでいい。
重荷のなくなったナルミはこの先ずっと、エレオノールを愛してくれるだろう。
エレオノールと同じ時を歩いていってくれるだろう。
エレオノールの幸せのために。
そして自分自身の幸せのために。
「とはいえ、あんな欠点の多い男だからね、エレオノールが見切りをつけるのも早いかもしれないさね」
「ふむ、あんなガサツな男だからな、エレオノールをぞんざいに扱う可能性もある、ってことか、ルシール?」
「もう少し、ここで様子を見ようかねぇ。どうせ私たちにはこれから時間だけは余りあるんだから」
あんたはどうお思いかい?
ルシールはギイでない誰かに話しかける。
ギイが不思議に思って言葉の向かう方角に首を向けると、いつの間にかそこに、
ギイがこの90年、会いたくて会いたくて仕方のなかった人が隣の席に腰掛けていた。
途端、ギイの瞳が水面に映った銀色の満月の様になる。
「……マ、……ママン……」
「偉かったわね、ギイ。私との約束を守ってくれたわね、ありがとう」
アンジェリーナがにっこりと微笑んで両手を広げる。名前の如く、天使の羽を広げるように。
ギイの顔は少年の顔に戻る。瞳は丸く、泣くのを堪える子どもの顔に。
ギイはアンジェリーナの膝に縋りついた。
彼女の着物をぎゅっと握り締めてその温かい膝に何度も何度も頬擦りをする。
「ママン、ママン!!!会いたかったんだよ、ずっと…!僕の名前を呼んで欲しかったんだ…!」
ずっとこうして抱き締めてもらいたかった!!
「ギイ。エレオノールを護ってくれてありがとう。幸せにしてくれてありがとう」
「マ……マ……」
言葉に詰まるギイをアンジェリーナはやさしくやさしく抱き締める。
やさしくやさしく、ギイの頭を撫でる。
「これからはずうっと一緒ね、ギイ」
ギイはこくこくと頷いて、アンジェリーナの膝を涙で濡らし続けた。
「いい子ね」
ギイは小さな子供に戻っていた。
母に抱き締められる喜びを、ようやく今、身をもって知ることができたのだった。
勝はフェイスレスからゾナハ病の止め方を教えてもらい
世界中から、かつて彼らを苦しめて、彼らの人生を狂わせた業病は姿を消した。
呪われた人形破壊者と自動人形の戦いの歴史に終止符が打たれた。
死して魂のみになった彼らをも縛る呪縛は、絶たれた。
「ママン、エレオノールが選んだ男をどう思う?」
目を真っ赤にして、子どものようなあどけない顔で、ギイはアンジェリーナに訊ねる。
「そうね、とても笑顔の素敵な人ね。やさしそう…どこか正二に似ているような気がするわ」
アンジェリーナはクスクス笑う。
「正二に似ている?そうかなぁ?あいつは本当に粗野なんだ。エレオノールを泣かしたりしないだろうか。あいつはホントにバカだから」
「ギイ、あなたが認めた人なんでしょう?だったら大丈夫よ」
「そうだけどさ」
「だったらやはりもう少しだけ、みんなで見守るとしようかね。お茶やワインを楽しみながら」
ルシールも笑う。
「そうね、じゃ、エレオノールの花嫁姿を見るまで、ってのはどうかしら?」
ギイとルシールは顔を見合わせる。
「あのイノシシ男にそんな甲斐性あるか?」
「私たちは永遠にこの場所に留まってなきゃならないかもねぇ」
「いいわよ、私たちには時間がたっぷりあるんだから」
アンジェリーナはギイに微笑みかける。
「ようやく息子に会えたんだもの。話は尽きないわよ、ねえ、ギイ?」
ギイも笑い返す。
僕もこのままでいい。やっとママンに会えたんだ。甘えて甘えて、甘えるんだ!
そう、僕たちにはたっぷりと時間があるのだから。
天上の台に笑い声がこだまする。
「みんなでおまえがエレオノールをちゃんと幸せにするかどうか見ているからな」
まあ、おまえは僕の期待を裏切ったことがないから大丈夫だとは思ってはいるけれど。
「僕を失望させるなよ」
ギイは世界一信じている男に、空の上から笑いかけた。
彼ら肉親の心配を他所に、鳴海とエレオノールの愛この先どこまでも大きく深く育まれていく。
慈しみ、愛おしみ、労い、仲睦まじく、無償の愛を与え合う。
悠久の人の歴史の中で、誰も辿り着いたことのない境地にまで彼らの愛は昇華する。
今はそのことを、ただ時だけが知っていた。
End