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藤田先生のツイッターでの後付け設定である
「鳴海と勝は二度と会わない」
「逆転治療により『しろがね』は徐々に人間に戻る」、
この2点を踏まえていないSS、
またはスピンアウト気味のSSです。
爪。
カタンカタン、カタンカタン、カタン……。
『おはよう』
『おはようございまーす』
『今日もいい天気ですねぇ』
『行ってきまーす!』
『いってらっしゃーい!』
声が聞こえる。
眠りが浅くなる。
深い海の底からゆらゆらと浮かび上がるように、意識が少しずつはっきりとしてくる。瞼の裏が、濃い深海の色から、明るい空が窺える遠浅の海の色になる。
少し開いた窓の隙間から風に乗って耳に届く町の音。人の声。
もう、世の中は起き出して動き出している時間。
とはいえ、この部屋は外界から切り離されているかのように、いまだ世の中とは時間の進み方がいささか違うようだ。
ここだけ時間が止まっているようで、それがまた心地いい。
カタンカタン、カタンカタン、カタン……。
遠くから聞こえるこれは電車の音。
毎日繰り返される、変わらぬ人々の営みの音。
鳴海はふうっと瞼を持ち上げた。
ものすごく見慣れているのに、ものすごく懐かしい天井の木目が目に入る。
透明なセピア色に染められた部屋は、風がカーテンを持ち上げるたびにその色の濃淡を変える。
ぼうんやり、ここは何処なんだろう、なんて考えて、外から聞こえてくる声が日本語ばかりなのが何だか変な感じだなぁ、なんて考えて、ああ、ここは日本だからそれでいいのか、と考えた。
ここは日本。鳴海の自宅。
寝ぼけ眼で天井の木目の本数を数える。
あれあれ?今日のバイトは何時からだっけ?ストローサーカスのバイト、クマのキグルミに入らなきゃ……
そうしねぇとゾナハ病の発作が……
鳴海は開けっ放しにするにはまだ重い瞼を再び閉じた。
まだ脳ミソが寝ている。
ここしばらくないくらいに、ぐっすり眠りすぎたせいかもしれない。
頭の中身をまとめてみる。
今のオレにはバイトに行く予定はない。
それからストローサーカスは潰れている。
そしてもう、自分はゾナハ病患者ではない。
そうだ、全てが終わって、オレは昨日、日本のこの家に帰って来たんだった……。
それも、ひとりじゃなくて、ふたりで。
左腕に乗る温かなやさしい重み。
鳴海は傍らの柔らかな存在にまだ少し眠い瞳を向けた。
銀色の後頭部が間近にある。
彼女は自分が枕にしている鳴海の腕の先を引き寄せて、その手の平を取り、何やらじっと眺めているようだった。細い指が厭きもせずに鳴海の指先をなぞる。
一体何をしているんだろ?
オレの手の平を裏返したり、面に返してみたり、指を曲げてみたり。
「しろがね…?」
今や鳴海の心の大部分を占めている女の名前を呼んでみた。
「あ…おはよう、ナルミ。ごめんなさい。もしかして起こしてしまった?」
しろがねが鳴海の腕の中でくるりと反転する。
笑っている。しろがねが。
何だかそれが、胸の中がくすぐったくて仕方ないほどに嬉しくて、鳴海もまた笑顔を返した。
「いや。オレを起こしたのは外の音だから」
唇を重ねる。軽い布ずれの音。オレだけの可愛い女。
「一生懸命、何を見てた?」
「ん?あのね…あなたの手を見ていた」
「手?」
鳴海は手を掲げる。
しろがねはその手を追って身体を上に向けるとまた鳴海の手を取った。
戻ってきたばかりの鳴海の左腕。
生身の腕。
「正確には爪を見ていたの」
「爪?ああ…ようやく生え揃ったもんな」
鳴海が居なくなってしまった軽井沢。勝が抱き抱えて持ち帰った彼のもげた左腕は傷だらけだった。
勝を守って。しろがねを守って。
「私……お坊ちゃまからあなたの左腕を受け取った後、ずっとそれを抱き締めること以外何もできなかった。呆然とただ、抱いてた。お坊ちゃまは泣いていたけれど、私の瞳からは涙は流れなくて、ああ、やっぱり私は人形なんだな、って……」
しろがねは鳴海の手の平を頬に押し当てた。
「微かに残っていた温もりもすぐに消えて冷たくなって硬くなって。何で私は笑えなかったのだろう、笑っていれば、あなたの発作は治まってもっと簡単にお坊ちゃまたちを救出して戻ってきたはずなのに、今頃、私に笑いかけてくれているはずなのに、って……」
話しているうちに辛い思い出が胸を締め付け始めたのか、しろがねは鳴海の手の平の内側で唇を噛んだ。
「あなたが見つからない、死んでしまったと皆が言う。ただひとつ遺されたこの腕も荼毘にふされてしまう。だから私は腕が私の元にあるうちに、それをひたすら瞳に焼き付けることに専念したの」
しろがねは鳴海の手を持ち上げて愛しげに見つめる。
言葉に合わせて、指で辿る。
「手の形、指の形、指の長さ、指の太さ、手の平の厚み、手相、肌の色、肌の肌理、腕の太さ、逞しさ、それが私の頬を包んだときの感触 」
鳴海は黙って聞いていた。
しろがねの口から自分への愛情が止め処なく溢れる様は自分の身体も心も熱くなる。
「だから、私はあなたの左腕が戻ってきたとき懐かしかったの。まさかお坊ちゃまがあんな方法であなたの腕を保存していてくれたなんて思いもよらなかったのだけれど、あなたの腕、覚えていた通りだったから…本当に、左腕だけでもあなたに還ってよかった」
しろがねは鳴海の左手にくちづける。
その唇の柔らかさに鳴海の身体は鳥肌が立つくらいの気持ちよさを覚えた。
「でもね、あの時、あなたの爪だけが記憶できなかったの。車通しの落とし穴にかかった私を助けるために、あなたは左手で地面を掻いて爪を傷めたでしょう?」
「そうだったなぁ」
生爪が何枚か剥がれた。残った爪も削れたり、欠けたりで元の形は判別できなくなっていた。
「『しろがね』になる前の傷な上、冷凍されてずい分時間も経っていたし、縫合手術の後も腕をくっつける自体に生命の水も躍起になってたみてぇで、爪にまで効果が出るのに時間がかかったからなぁ。出始めたら早かったけどよ」
そう言って眺める爪も今ではすっかり生え揃っている。
大きくて男らしい爪。意外と縦長で、そのために指に細長い印象を与える爪の形。
「だから、ね。ああ、あなたの爪ってこんな形をしていたんだな、って思ってたの。思ったら何だか感慨深くなってしまって」
「そうか」
「そうなの」
しろがねが、鳴海の爪を甘く噛む。
鳴海はしろがねの歯から爪をそっと抜くと、代わりに彼の舌を噛ませた。
カタンカタン、カタンカタン、カタン……。
電車がまた通る。
通勤通学の時間帯は一段落したのか、辺りは幾らか静けさを取り戻した。
世の中はもう動き出している。
けれどまだ、鳴海はここから動く気になれない。
鳴海はしろがねの濡れた唇を親指の爪先で拭く。
「しばらくは…この家でゆっくりしよう。俺たちは散々動き回ってきたんだから…ちっとばっかりゆっくりしても罰はあたんねぇだろ」
「そうね」
しろがねは鳴海の言葉に同意しながらも、でもこの人はまたすぐに動き始めるのだろう、と思った。
この人は動の人だから。一箇所にずっとじっとはしていられない。
「オレさぁ……やりてぇことがあるんだ……」
少しの間の後、鳴海は語り出した。
ほうらね。しろがねはにっこりとする。
「何を?」
「サーカス」
「サーカス?」
ふたりは温まった布団の中で、鼻と鼻がくっつきそうなくらいに寄り添って、囁くように会話する。
「オレな、イリノイのゾナハ病棟で幸せを皆毟り取られた子ども達を見て思ったんだ。不幸な境遇なのにあいつら、オレのすることやること、笑ってくれてさ……だからもし、そういった子ども達に笑顔が与えられるなら、って、オレなんかが子どもの役に立つのならそういうことに携わりてぇなぁって思ったのよ。サーカスっつってもテントを張るような大仰なのじゃなくって、世界にはサーカスなんてものが来ない場所もあるだろ?戦争やってたり、国が貧しくてサーカスなんてやったり、呼んだりする余裕もなかったり。『サーカス』なんて言葉も知らないような、そんなところの子ども達にサーカス見せて笑わせてやりてぇんだよなぁ……」
鳴海は瞳をキラキラとさせている。それが鳴海の夢。鳴海の将来したいこと。
「素敵ね」
「そ、そっか?」
しろがねに自分の思いを笑顔で肯定されて、鳴海の顔が赤くなる。
そして真面目な顔になって話を続ける。
「でも、そのためには…オレひとりじゃ花もねぇからよ…おまえにも是非、ついてきてもらいてぇんだが…」
「いいわよ。勿論」
しろがねの言葉には一切の躊躇いがない。
「危険な所ばかり廻るんだぞ?それに根無し草な生活になるんだぞ?ついてきて欲しいって言いながらこんなこと言うのもなんだけど」
「気にしないわ。これまでだって私は旅暮らしだったのだもの。それにこれからはあなたが私の家だもの。
世界中、何処に行ってもあなたの居るところが私の家」
「……さんきゅ」
鳴海はしろがねの額に唇を寄せる。
ホッとした。
でも鳴海はしろがねが「これからは一つ所に留まりたい」と言うのであれば彼女の意思を尊重しようと思っていた。
やりたいことも夢も、諦めても。
鳴海にとって一番大事なことは、ふたりでいることだったから。
「ああ、でも。サーカスをやるのならあなたには特訓が必要よ?子ども達に見せられるような芸を身につけてからの話よね?」
「む…そりゃそうだ」
中国拳法の達人とは言え、サーカス芸に関してはド素人。
「しばらく私たちも仲町サーカスに厄介になりましょう。お坊ちゃまも戻られると言うし。サーカスの芸に関してはお坊ちゃまの方があなたよりも先輩ね」
「そおかぁ…マサルがオレの先輩になんのか…」
「そこで扱かれるといいわ。ノリさんやヒロさんたちに」
「ノリさんたち…」
おそらく、彼らはしろがねと幸せになった鳴海のことはヤッカミ半分で厳しく扱くことだろう。
その絵が非常にリアルに想像できる。
「ま、しょうがねぇな。厳しくなきゃ上達なんて見込めねぇもんだしな」
練習の虫の鳴海はやる気になって一度始めればサーカス芸もあっという間に上達する(、はず)。フランスではきっと気の乗らない状態で、しかもギイに変なクスリを投与されていたから上手くならなかっただけの話(、のはず)。
「今夜はお坊ちゃまもここに泊まるのね…」
今日の午後、勝が黒賀村から帰ってくる。
今夜はやっと3人だけで語らうことができるのだ。
鳴海はそれを心待ちにしていた。
「今日はお坊ちゃまを新幹線口まで迎えに行って…仲町サーカスの皆のところに挨拶に行って…晩ご飯の買い物、3人で行って…何作ろうかな…?」
しろがねは今日の予定を立てている。
カタンカタン、カタンカタン、カタン……。
電車が通る。
世の中が動いている。しろがねも、動き出そうとしている。
「でも、今しばらくはこうしていよう」
鳴海は腕にしろがねを掻き抱き、ぎゅっと自分に引き寄せた。
世界中を恵まれない子ども達のためにサーカスをして廻る夢も、その夢に向かうためにやるべきことも、ひとまず脇に置いて今一番すべきことに今しばらくは専念しよう。
しろがねとの時間を満喫すること。
傍に居ることで、不必要に傷つけてしまった彼女の心を癒すこと。
あの歪な数ヶ月を確実に過去のものだと、今と未来の幸せで塗り固めて、彼女に安心を与えること。
悲しさや寂しさ、辛さや切なさで覆われ飽和していた彼女の心の中身を、幸せや喜び、楽しさや嬉しさに全て置き換えてやること。
彼女の身体と心を愛して、愛して、離れ離れだった身体と心を限りなくひとつにすること。
「愛しているぞ、しろがね」
愛している、なんて言葉を口にするのにはまだ恥ずかしさからくる抵抗もあるし、顔もまだ赤くなってしまうけれど、でもずい分と慣れた。
何よりもその言葉をかけることでしろがねがものすごく嬉しそうな顔をするのだ。
それなら、しろがねが喜ぶのなら恥ずかしいのも何のその。飽きるまで言ってやる。
「愛している」
言い過ぎて言葉の持つ意味が希薄化しなければいいのだが。
窓が開いているからと声を抑えるしろがねから、その理性をどうやってとっぱらってやろうか、なんて鳴海は考える。
相変わらず、電車の走る音が遠くから聞こえる。
指と指を絡める。しろがねの指が鳴海の爪を撫でる。その形を確認するように。
これからはずっと一緒の、その形を。
End