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『どうしたんだい、エレオノール?何か気になることでもあるのかい?』
ギイ先生が静かな声で私に話しかける。
私はきっと先生に分かるくらいにキョロキョロしていたのだろう。
それが少し気恥ずかしいことのように思えたけれど、先生の言う通り、気になっていたことは確かだったから先生に訊ねてみた。
『今日はどうしてスズランを持っている人が多いのですか?』
『ああ、そうだね。スズランで街が溢れているね。今日5月1日はミュゲ祭といってフランスではスズランを贈り合う風習があるのさ』
(*ミュゲ・muguet・スズランのこと)
『どうしてスズランなのでしょう?』
『スズランは春のシンボル、幸運をもたらす物なのだよ。それからヨーロッパでは恋人の出会いの象徴、でもある。だからみんなスズランを愛する者に贈るのさ。幸せが訪れますように、と』
私は先生の説明が進むにつれ、そのミュゲ祭が如何に自分と無縁のものであるかということを理解した。
幸運など、私に訪れるはずがない。幸せな感情を私は知らないのだから。
スズランを贈りたいと思う愛する人も私に現れるとは思えない。
私は街行く幸せ顔の人々の間を大きなスーツケースを押しながら歩く。
逆に、私にスズランを贈ってくれる人もこの世に存在するとは思えない。
自動人形を破壊するためのマリオネットが詰まったスーツケースを押しながら。
『スズランというのは日本、という遠い島国が原産らしい。それが中世に伝来して森に自生するようになった。今日は森から採ってきたスズランなら誰が売ってもいいのだよ』
ギイ先生は黙り込んだ私をじっと見ているようだった。
ふいに先生は私くらいの年恰好の女の子(実際は私の方が50歳近くも年上だけれど)の傍に寄るとスズランのブーケを1つ買い、それを私の前にすっと差し出した。
『君にあげるよ。エレオノール』
『あ、ありがとう……ございます』
小さな白い花が鈴生りになっている。可愛い、と私は思った。
無意識に私はブーケに頬擦りをしていた。
森のスズランはとてもいい香りがした。
私にも、ささやかでいいから、こんな小さな花一輪くらいでいいから、いつか幸せだと思える日がくるといいな。
そんな風に考えたことをはっきりと覚えている。
muguet.
「日本のこの家に帰ってくるとやっぱホッとするなぁ」
ナルミはそう言いながらリビングの窓を開けた。
「たまには帰ってきて風を入れてやんないとな」
私たちはめぐまれない子どもたちにサーカスを見せるために世界中を歩いているけれど、こうして時々日本に帰ってくる。
そして、私とナルミとお坊ちゃまが初めて会った日に訪れたこの家に滞在する。
「この家もボロいからなあ…いつまで建っていてくれるものやら。帰ってくるたび、屋根が乗っかってるか心配でよー」
冗談を言いつつもそんなナルミの目はとてもやさしい。
「じゃあ、私は掃除機をかけるわね」
「ああ、頼む」
私が納戸から掃除機を持ってくると、ナルミはまだリビングから庭を眺めていた。
「?どうかしたの?」
「ん?…仕方ないこととはいえ、庭が荒れ放題だなっと思ってよ…」
ナルミはそう呟く。
「そうね、年に1,2度、戻るだけだから…」
私も掃除機を置くと、ナルミの傍に寄って庭を見遣った。
雑草がはびこって、緑の海のようだ。本来、主役であるはずの草花や庭木も何が何だかさっぱり分からない。
「後で草むしりをしねえとな」
「私も手伝うわ」
「さんきゅ」
ナルミは私を抱き寄せて、額にやさしいキスをくれた。
「そんじゃ、始めっとすっか…お?」
何かを見つけた様子のナルミはおもむろに裸足のまま庭へと飛び出すと、塀の辺りへと行きしゃがみこんだ。
すぐに戻ってきたナルミの手の中には一本のスズラン。
「昔、じいさんが植えたヤツだ。こんな過酷な環境でも健気に生きてんだな」
「そうね」
「今日は5月1日だもんな。おまえの国ではスズランの祭りだろ?おまえにやるよ」
ナルミは可憐な花を私の前に差し出した。
愛する人へ幸せを願って贈る花。
「ありがとう…」
「まだいっぱい咲いてたけど摘むのは可哀想だから、一本だけですまねえな」
「ううん、いいの。嬉しい」
ナルミは少し赤い顔で頭を掻いている。どうやら照れているらしい。
「よく、知っていたわね。ミュゲ祭のこと」
「まあな、オレもちょびっとフランスにいたし。しばらくはフランス人のキザ野郎と口うるさい婆さんとワンセットだったしな」
私はスズランを見つめた。鈴生りの白い花の咲く可愛いスズラン。
ギイ先生を思い出す。
やさしい人だった。いつも私を気遣ってくれていた。それを表に出す事はなかったけれど。
私の幸せをいつも願っていてくれた。
「私、男の人からスズランをもらうの、これで二度目だわ」
途端、ナルミの顔が曇る。ヤキモチを妬いているのが手に取るように分かる。
何て分かりやすいヒトだろう。
「オレ、二人目?誰からもらったんだよ?まさかリシャール?」
「内緒」
私は可笑しくてナルミに背中を向ける。笑いを堪えるので必死だから。
「なあなあ、誰なんだよ、気になるだろお?なあってば」
私の肩に大きな手の平を乗せて、こちらも必死だ。
「ギイ先生」
「……なんだ」
私は振り向いてナルミを見上げる。
「ヤキモチ妬いてくれたの?」
ナルミの唇が尖っている。
「ちぇ。担ぎやがってよ。ま、いーさ、ギイなら。カウントに入んねぇから」
「どうして?」
「あいつはおまえの兄貴だろ?家族の愛情はいいんだよ」
ナルミの手が私の頬に伸びた。少し、私を欲しがるように、唇を重ねてくる。
「なあ……今からいいか?」
「ダーメ。これから掃除でしょう?こんな埃っぽいところでなんか嫌よ」
「普段、旅してるときなんかはもっと酷い環境でもしてるだろ?野宿も多いし、それでもしてるじゃねぇか?」
「それとこれとは話が別。この家を長持ちさせてあげたいんでしょ?天気がいいんだからお布団も干したいし……」
「絶対ダメ?」
「ダメ。全部片づけが終わるまでダメ」
「ちぇ。分かったよ」
「早く終わればそれだけ…ね?」
残念なのはあなただけじゃないのよ?
私はナルミの唇に人差し指を押し当てた。
ナルミはしぶしぶ腕を解くと、
「じゃあ、全力で掃除にとりかかるぞ?ぜってー、一時間以内には全部終わらせてやる。二階の窓を開けて布団干してくら」
と二階へと駆け上がっていった。
私はその無邪気で大きな背中を笑顔で見送ると、キッチンでナルミからもらった一本のスズランを小さなコップに生けた。
私はその清楚な花を見つめる。ギイ先生の顔が浮かぶ。
「先生……私、今、すごく幸せです。きっと先生のくださったスズランのおかげね」
時間はかかったけれど、確実に私のもとに訪れた幸福。
「あの時はほんとにこんな小さい花くらいの幸せでいいと思ったのに、ダメですね。こんなに大きな幸せに包まれてしまうと…贅沢になってしまって。この幸せが逃げてしまったら、今ではもう…独りで生きていくこともできなくなってしまいました…」
愛しているのです、あの人を。どうしようもないくらいに。
私の口から溢れる幸せが吐息となって零れる。
「さあ、きれいにしてしまいましょう」
ダイニングテーブルにスズランを置いて、私は家中の掃除に取り掛かった。
スズランが風に揺れる。
私の脳裏に浮かんだギイ先生はにっこりと微笑んでいた。
End