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『からくりサーカス』鳴しろSS置き場です。
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舞台設定、人物設定、その他もろもろ完全創作です。

『良い花は後から』の雛型SSなので、設定や台詞がかぶってます。





彼女が彼と出逢ったのは、大学に入りたてで独り暮らしを始めたばかりの春だった。


駅から程近い住宅街、ここら辺は一軒家から低層階マンションへの建て替えが盛んだったようで比較的新しい物件がずらりと並んでいた。その中にあって、彼女のマンションのお向かいは流れに取り残された古い日本家屋だった。
表札には『加藤』、そこには年の離れた兄弟がふたりで住んでいた。


どうやら男所帯は毎朝が戦争らしく、大騒ぎの末に慌ただしく出かけていく。小さな弟はランドセルをダタダタ言わせて小学校へ。大きな   年齢的にも体格的にも   兄は何をしている人だか良く分からない。
でも、たまに家を出る時間が重なる時、玄関先でばったり会うと兄のひとはにっこりととても明るい笑顔で「おはよう」と挨拶をくれた。でも、基本的に他人と関わり合いになるのが煩わしい彼女は、硬い表情のまま軽く会釈をするだけだった。


ある朝、いつも通りの騒がしさで兄弟が出かけていくのを洗濯物を干しながら見送って、彼女も大学へと出かけるために表に出たところ、自宅の前で弟の方が困ったように立ち尽くしているのに出くわした。今日は遠足なのだろうか、ランドセルではなくてリュックを背負っている。少年はカギを持っていないようで、施錠された扉の前で途方に暮れていた。
誰が困っていても、彼女には関係がなかったからそのまま大学に向かっても良かったのだけれど、普段ならそうすると思うのだけれど、どうしてか
「どうかしたの?」
と声をかけていた。少年の、円らな瞳に縋るように見つめられたこと、雨に打たれた子犬みたいな雰囲気がそうさせたのだと思う。


「あ…あのね。今日は遠足なんだけど、レジャーシート、忘れちゃって」
「僕の鍵はランドセルの中で…家に取りに帰れなくて」
「遅刻はダメだから、友達に一緒に使わせてもらった方がいいのかなぁ」
「でも忘れ物もダメだよねぇ…」
少年はどうしていいのか分からない、そんな顔で家を見上げた。
「そう」
こんな時はむっつりと黙り込む自宅がヤケに大きく目に映るものだ。少年の不安が感染したのかもしれない、彼女も眉間に皺を寄せて、困ったな、と思った。話しかけた以上、この問題が解決しないと場を離れることが出来ない。ふと、自宅にちょうどいい物品があることに思い当たり、
「ちょっと待ってて」
と引き返した。
「これ。どうぞ」
少しの間で戻って来た彼女の手にはレジャーシートがあった。
「え?でも…」
「何かの折に貰ったものだ。使う予定もないから、あなたにあげる。勿論、返さなくていい。捨ててくれても構わないから」
少年は小さな手を伸ばして受け取ると
「ありがとう」
と笑った。明るくてとてもいい笑顔だった。兄弟で良く似ていると思った。


次の日曜日のこと、彼女の家に来客があった。
「あっ、あの、この間は、弟が迷惑をかけたようで、す、すみませんでした」
お向かいの兄弟だった。緊張しきりな兄の大きな身体の傍で弟くんが笑顔で手を振ってくれた。
「いきなりお邪魔してご迷惑かとは思ったんですが、その、お詫びとお礼をと。これ、どうぞ」
大きな手が紙袋を突き出した。
「お口に合うかどうか」
「気にしないで良かったのに。あれはタダでもらったものだ。捨てていいと言ったものにこんなお返しを頂いては、余計な気遣いをさせて申し訳なくなる」
「いや、……これも、いらなかったら捨ててくれて構わねぇモノ、だから…」
困惑しながら両手で受け取り、
「このシフォンケーキはオレが焼いたヤツだから」
の言葉に驚いた。見上げるほどの体躯で強面な男がスィーツを手作りとは。ギャップが物凄いと思った。
「調理師学校に通ってる身でプロじゃねぇんで……味の保証も出来ねぇし、素性が分かんねぇのが持ってきたモンが気持ち悪ければ…」
「ナルミ兄ちゃんの料理はすっごく美味しいんだよ。食べてみて?」
「おい、勝…」
弟が兄の援護射撃をした。


ニコニコしている弟と、オロオロしている兄。それにしても、ナルミとやらはどうしてこんなに緊張しているんだろう。強面が更に怖くなっている。くすり、と可笑しさが込み上げた。
「ありがたくいただく」
と言うと、彼は見るからにホッとした表情になった。強張った頰が緩んでいつもの笑顔が息を吹き返した。あの笑顔を見ると、胸の中がほわっと暖かくなる。
「そ、そっか」
彼は頭を掻いて照れ笑いをしていた。どうしても、この笑顔をもっと間近で見ていたいと思ったから
「良かったら、上がって一緒に食べて行かないか?」
と誘ってみた。自宅に誰かを上げるなんて初めてのこと。
「え?」
「せっかくのケーキ、私一人では食べきれないし、美味しいものは大勢で頂いた方がより美味しいのだろう?」
事実、手作りのシフォンケーキはとても美味しかった。ふわり、とキャラメルが香った。


彼女と加藤兄弟との賑やかなご近所さんの関係は、彼女が大学を卒業し、母国フランスに帰国するまで続いた。
それから数年後、彼女が再来日してみると、懐かしの加藤家は喫茶店となっていた。
その店名は






しらかね茶寮






雨粒が滑らかな紫陽花の葉を打つ。
窓越しに見える、そぼ降る雨に白く煙る見事な純白の紫陽花の群生にしろがねは鈎針を動かす手を休め、しばし清清しい花色を眺めた。
花は季節の移ろいをそっと教えてくれる。濃い緑の葉に夥しい数の目映い手毬たち。
しろがねは時間の流れを忘れて紫陽花に、紫陽花の花弁を弾く雨粒にじっと見入った。
ふと、右耳に誰かの視線が掠めたような気がしてその方向に首をゆるりと向けた。こじんまりとした、薄暗さの中に暖かな照明の灯る落ち着いた喫茶店の店内。深い珈琲の香りの向こうで、艶やかな黒い瞳と目が合う。


「何だ?」
しろがねが訊ねると低くてやさしい声が
「別に」
と答えた。鳴海はしろがねの座る席から少し離れたカウンターの向こうで洗ったコーヒーカップをクロスで拭っている。手があまりにも大きすぎて、年代物のマイセンが子どものオモチャのようだ。
「ただ……きれいだな、って思ってよ」
鳴海の瞳が眩しそうに細められた。しろがねは言葉を受けて窓の外に目を向ける。
窓の向こう、庭に植えられた紫陽花の株が咲かせる見事なほどの白い花々。雨を透過する薄陽が紫陽花自体をぼんやりと底光りさせている。
「そうだな。私も紫陽花が見頃で綺麗だなと思っていた」
どうしてか鳴海が可笑しそうに笑うので、しろがねはもう一度
「何だ?」
と問うたけれど、鳴海は瞳を細めただけだった。


数年前、鳴海は祖父が遺した家の一階部分を全面改装し、喫茶店をオープンさせた。
庭弄りが趣味だった祖父のお陰で四季折々の草花が、店内から楽しめるのがありがたい。今の季節の見頃は紫陽花だ。


しろがねは膝の上に製作途中のレース編みを置き、テーブルの上のカップに手を伸ばした。すうっと香りを深く吸い込む。香りが身体に沁みこむ心地がする。
「オレがきれいだって思ったのは紫陽花じゃねぇんだけどな」
「何?何か言ったか?」
カップをソーサーに置く微かな音に鳴海の小さな言葉が紛れてしまったので、再び声の主に顔を向け訊き返す。
「ん?何……オレはガクアジサイよりはこういった手毬の形の紫陽花の方が好みだなって思ってよ」
鳴海は笑っている。しろがねも表情を柔らかく解す。鳴海の笑顔を見ると、笑うことの得意でないしろがねも自然と笑えるから不思議だ。彼女に気負うことなく、素直に表情を作る手伝いを鳴海はしてくれる。
彼にはそんな自覚はないだろうが。こんなのは、私の、気持ちの持ちようだから。


「……そうだな、私も、こっちの方が可愛いと思う。手毬の形の紫陽花は今の時期の結婚式で花嫁がブーケに使っても素敵だろう」
「花嫁、ね」
鳴海の声色がどこかからかう者の色を帯びる。
「何だ?」
「いんや、何でも」
鳴海がからかったのはしろがねではなく自分自身。
白い紫陽花のブーケを携えたしろがねはさぞかし美しい花嫁になるだろう。その傍らに立つ新郎が誰になるかは知らないが。


「今日は雨脚が強いからお客さんが途切れがちだな」
しろがねの言葉通り、店の中にはしろがねしか客がいない。
駅近の住宅街、昨今の隠れ家カフェ流行りに乗っかって、鳴海の店の評判はなかなか上々なのだが天気には勝てない。紫陽花を透かすレトロガラスを雨垂れが幾筋も伝う。
「まあ…そうは言ってもランチは殆ど捌けたし……。お茶時まではヒマかもな」
「なら、あなたもゆっくりするといい」
「そうだな。次の客が来るまでなら…」
と言ってる先からカランカランとドアベルが鳴った。


「いらっしゃ…何だ、おまえか」
「兄ちゃん、なんか食べるものある?」
来店したのは鳴海と同じいい笑顔で笑うベビーフェイスな青年、弟の勝だった。
「勝よぅ、来るなら来るって連絡寄越せと」
「ごめんごめん。忘れてた」
勝は悪びれもなくペロリと舌を出して見せる。
「授業がちょっと押しちゃってさ。ランチ食べそびれちゃって」
「だったら学食か、大学の近くで済ませればいいものを。あそこら辺、食いモンの店なんかいっぱいあんだろうが。わざわざ帰って来なくても」
「だって、どうせお金を落とすなら兄ちゃんのご飯が食べたいじゃない」
「ほー?払ったタメシねぇけどな」
鳴海は肩を竦めつつ、それでも笑顔で支度に取り掛かる。
「こんにちは、勝さん」
「しろがね、こんにちは」
勝はしろがねと挨拶を交わし合ってカウンターに席を取る。勝がしろがねに聞こえないよう
「二人きりだったんだ。ごめんね、兄ちゃん。お邪魔だったみたい」
とコソリと言うと、鳴海は耳を真っ赤にし
「ば、馬鹿、そんなんじゃねぇよ」
バツが悪そうに背を向けた。


「しろがね、こっちでの生活は順調?」
「ええ、恙無く」
この春、しろがねは大学卒業を機に帰国してから、五年の年月を挟んで日本に戻って来た。
その前年、卒業ぶりに仕事で来日したしろがねが郷愁から昔住んでいた町に足を運んだところ、加藤家が喫茶店に改装されていて驚いた。更にその店のカウンターの内側に鳴海を見つけて更に驚いた。美味しいコーヒーをいただきながら昔話に花が咲いて、やはりこの人の笑顔が好きだなと実感した。さりげなく、鳴海のプライベートを訊き出すと独身で特定の誰かもいないと言う。
「奢りだ」と差し出されたのはキャラメルが香るシフォンケーキ。初めて語らった日と同じ香り。
これは縁だと思った。今度こそはせっかくの縁を掴んで放さないと決めた。


「ねえ?」
勝がしろがねの向かいの席にやって来て
「しろがね、これからはずっとこっちなの?国にはもう帰らない?」
と訊ねた。
しろがねは、昔のように鳴海の傍で暮らしたいと思ってしまったから、仕事の拠点をすぐに移した。元々仕事のオファーがあったので渡りに船だった。彼女の仕事はニットクラフター、ニットデザイナーだ。そのルックスも相まって教室も出版本も好評。
以降、空いた時間を、鳴海の店で編み物をしながら過ごすことがしろがねの日々の楽しみだ。
「こちらでの仕事も軌道に乗ったし、そのつもり」
「ああ、良かったぁ」
勝は大袈裟に胸を撫で下ろす仕草をしてみせた。


「しろがねがフランスに帰っちゃった後の兄ちゃんの腑抜けっぷりったら半端なくてさぁ」
勝がいたずらっ子の顔でコソリと言う。
「そんなことはないでしょう?」
彼の不在から来る空虚感に悩んだのは自分の方だ。
「大袈裟では」
「僕、話を盛ったりしてないよ?じゃあ、兄ちゃんがどうして自宅で喫茶店マスター始めたか、本当のコト教えようか?」
「夢だったってナルミは……でも、修行してたの大きな和食屋さんだったからチグハグな気はしてたのだけど」
「それはね…」
ちら、と背後の鳴海の様子を偵察して、奥で食事の用意をしているのを確認すると、勝は声も姿勢も低くして
「しろがねのためなんだよ」
と言った。






あの春の鳴海は、高校卒業したばかり、調理師の専門学校に通いつつ、知り合いの店で修業しつつ、バイトしつつ、弟の世話をする、非常に多忙な毎日を過ごしていた。早くに父親を亡くし、母親も前の年に亡くなり、遺された祖父の家で兄弟ふたりとなり、幼い弟を抱えて奮闘中だった。


同世代の誰もがそうであったように、鳴海もまた自分の未来に具体性を持っていなかった。普通に大学進学を希望し普通の会社に入社するだろう漠然さだったが、急遽就職を念頭に置かなければならなくなってしまった。何もしなければ、親の遺産など数年で食い潰してしまうし、勝の今後を考えたら鳴海は働かなくてはならない。自分と違って勝は賢い、ちゃんと大学まで行かせてやりたい。
なので趣味と実益を兼ねたところで料理人になると決めた。となれば、当座の目標は調理師免許の取得だった。


可愛い弟のために頑張る。自ら選んだ人生に何の疑問もないけれど、その毎日に自分のための目的が何もないことが少し寂しかった。
そんな折、お向かいの新築マンションにとある女性が引っ越して来た。銀色に光り輝いた、とんでもない美人だった。接点なんか持とうとしてもなかなか持てるものではなく、鳴海の出来ることと言えば、運良く玄関を出るタイミングが重なった時に挨拶を投げ掛けるくらいで、それだってお向かいとはいえ見知らぬ男が胡散臭く思われるのは仕方なく、彼女から貰えるものは愛想の無い会釈だった。
それでも、鳴海の毎日は色付いた。楽しかった。


想うばかりで進展のない日々、そんな中、弟の勝が彼女に迷惑を掛けたと言った。勝が彼女から貰ったレジャーシートはどっかの会社名が入った粗品だったけど、とりあえずは家宝にすることにした。これをキッカケに「ただのお向かいの顔見知り」から脱却するしかないと、シフォンケーキを焼いた。
若い女性なら大抵は甘いものが好きなものだが、もしかしたら辛党かもしれない。押し付けがましく受け取られるかもしれない。いらない、と一蹴されるかもしれない。そもそも、自分は彼女のタイプではないかもしれない。
様々なネガティブシンキングに苛まれた。あんなに緊張を強いられた経験なんか他になかった。口から胃やら心臓やらが飛び出しそうだった。
だから、彼女が淡く微笑んで「食べていかないか」と誘ってくれた時の気持ちなんか言葉に表せるわけがない。


後で勝から、兄の片想いは最初からすっかりお見通しだったと言われた。忘れ物をしたミステイクで、たまたまマンションから現れた銀色美人とお近づきになれればと瞬時に考えた。もちろん、鍵はリュックに入ってたけれど無いフリをした。困っている幼気な少年の演技は我ながらあざとかった、らしい。
「おねえちゃんにお礼を言いたい」と言って兄の尻を叩いたのも勝だ。何もかも、勝がお膳立てしてくれたのだ。お陰で気楽に話しかけても大丈夫になれた。勝はとんでもなくいい弟なのだ。ランチのタダ食いなんてどうということもない。


しろがねが大学生だった四年間はとにかく楽しかった。その間、ふたりの関係はひたすら『ご近所さん』だった。鳴海はとにかく忙しくて、月曜日から日曜日まで、早朝から夜遅くまで動き詰めだった。時折交わせるしろがねとの挨拶や会話が、鳴海の癒しであり潤いであり原動力だった。
もちろん、彼女との関係を更に進めたい願望はあったけれど、何しろ自分の置かれた現状が中途半端だったから、一人前と自負できた時に告白しようと頑張った。


だから、しろがねが帰国してしまった時、鳴海の全身から力が抜けてしまった。生活の張りが失われて、ありとあらゆるリズムが狂ってしまった。
こんなにも彼女のことが好きだったんだと思い知った。
彼女はずっとご近所さんでいると思い込んでいた。こんなに時間があったのに、どうして『ただのご近所さん』で甘んじていたんだろう。一人前になるまで、なんて意気地無しの言い訳だった。どうして連絡先のひとつも聞いておかなかったんだろう。
こんなに後悔するくらいなら、当たって砕けていれば良かったのに。居心地のいい毎日を壊したくなくて臆病でいた自分に悪態をついても、お向かいのマンションからは眩しい銀色はもう現れない。
鳴海の生活から、色が、褪せていった。






「またいつかここに会いに来る、しろがねが別れ際にそう言ったから、兄ちゃんは家を喫茶店に改造したんだよ。ここで店主やってれば、しろがねがいつどんなタイミングでやって来ても再会できるじゃない」
「そ…」
「ある日突然、喫茶店やる、って修行先辞めて来ちゃってびっくりしたよ。思い立ったら吉日で、あっという間に計画立ててさ」
手付かずにしていた相続分を改装資金に充てた。知り合いの工務店が良心価格で引き受けてくれたので非常に助かった。インテリアの家具、調度品や、ビンテージ物のカップや皿、サイフォンなどは凝り性で蒐集家だった祖父のものを有効活用した。
動くと決めたら速い男なのでトントン拍子に話は進んで現在に至る。
「店名にしろがねの名前なんて付けちゃってさ。どんだけだよ、って」
「私の名ま……そ、そう、な…?」


急に店内が暑くなった気がする。似てるな、とは思っていた、でも。
「ナルミはたまたまだと言っていたから」
「しらかね、は、しろがね、の古い読み方だよ」
ならば、それを店名に付けた、鳴海の真意は…
コーヒーカップに手を伸ばしかけて、やっぱりお冷を手に取った。物凄く、喉が渇く。
「せっかくしろがねが帰って来たのにさ、兄ちゃんそれだけで満足してるんだもん。見てて歯痒くてさ」
ボソボソと呟く。
「しろがねもさ、どうして向こうの仕事をゼロにしてこっちで再スタートを切ることにしたの?ちょっと調べただけでも、あのオシャレな国でのしろがねへの期待値は半端なかったのに、それを蹴ってまでどうして?」
しかも、しろがねには仕事量をセーブしている感がある。鳴海の店での時間を優先して作っているような、そして、ここを自分のアトリエかのようにして過ごしている。仕事の打ち合わせに使うことも間々だ。
「しろがね、こんな兄ちゃんの話を聞いてどう思った?」
「え?」
「重たく思った?」
「わ、私は…」
「何コソコソ悪巧みしてんだ」


鳴海は、勝の前に見るからに食べ応えのある皿を置いた。勝としろがねの内緒話の中身が気になっているのがバレバレな顔をしている。
「こっちの席に移んのか?」
「うん。いい?しろがね」
「ええ、どうぞ」
「…ほれ、特製BLTEサンドとランチメニューの残りモンだ。飲みモンはアイスコーヒーでいいよな?」
「うん。ていうか分厚過ぎない?このサンドイッチ」
「文句言うな。全部食え」
「もちろん食べるってば。それにしても重たいなぁ」
「重たくない。ちっとも」
しろがねがサンドウィッチに託けて、先程の答えを口にした。勝がパチリとウィンクする。
「そっか、なら良かったよ」
大きな口を開けて特大サンドイッチを頬張る勝を、しろがねは微笑ましく見守った。そんなふたりを見て、鳴海は目元にやさしい皺を刻んだ。






「私もそろそろ行かないと」
サンドウィッチを平らげた勝が早々に席を立ってしばらくして、しろがねもまた帰り支度を始めた。
「担当さんと打ち合わせがあるから」
「珍しいな。いつもここで済ませているのに」
「うん。今日は他にも同席する人がいる関係で場所の指定があって」
「担当って、ここにしょっちゅう来る男だろ?」
大手出版社に勤め、デキる男である自負が全身から溢れてるイケメンだ。しろがねに気があることは一目瞭然、来る度に誘い文句をかけている。無自覚なしろがねが絶妙に断っているからいいようなものの、その内に引っ掛けられたら、と考えると何とも落ち着かない気持ちになる。
今日の場所指定だって絶対に下心アリだ。同席者が本当にいるかも怪しい。
「変なコトされるなよ?」
「変なコトって?」
「…いや別に」
鳴海は、戸口に向かうしろがねの先に立って扉を開け放し、空を見上げて
「雨は…いくらか小降りになった、かな」
と話を誤魔化した。


「ご馳走さまでした」
「まいど、どうも」
「しらかね…茶寮…」
鳴海の傍らを通り抜けながら、ガラス戸に書かれた店名を指先でなぞる。
「どうしてお店の名前、私を連想する言葉にしたの?」
唐突に飛んできたはっきりした質問に鳴海はたじろいだ。やたら確信的な強い瞳に、ネタ元が
「勝だな…」
とすぐに割れる。
「どうして?」
「ど…うして、って」
決定的なことを口にするのはこの期に及んで躊躇われた。
鳴海にはこの場所でしろがねを待つことしか出来ない。遠くへ飛んで行かれてしまったら追いかけることは出来ない。
いきなりガツガツとしたらしろがねが戻って来たこの幸せが弾けて消えそうな気がして、今しばらくはこの空気に浸っているつもりだった。それを生ぬるいとか、臆病風に吹かれてるとか、意気地無しとか、言われても否定は出来ないのだけれど。


「おまえに会いたかったからだよ」
鳴海は観念して正直を口にした。
「この国には『言霊』ってもんがある。呼んでいれば、いつかおまえが応えてくれるかもしれないだろ……なんて理由、聞いて気持ち良いか?」
ストークされてるみたいでよ、と言いながら、鳴海は顔を背けた。別れ際の「また会おう」なんてものは社交辞令なわけで実際に会える話は少ないのではなかろうか。ましてやユーラシア大陸の反対側ともなれば、ほぼ今生の別れと同義だと考えていた。だからこそ、付けたような店名だった。
しろがね、しらかね、最愛のひとの名前。
「それ…私は、自惚れていいの?」
思いも寄らない言葉に視線を戻す。しろがねの、あんなに強かった目力が弱まり、不安そうに宙を泳いでいた。
喉元に、ほろ苦くて甘い何かが迫り上がる。


なんだよ、それ
オレの方こそ
自惚れるぞ?
いいのかよ?


「あなたは…私のことを…」
ああ、もう、皆まで言わせない。
カラン、とドアベルが鳴って戸がしまった。鳴海はしろがねの身体を引き寄せると、唇を重ねた。触れたなら二度と放さない。掴んだこの手を解かない。
「オレはおまえが好きだ。初めて会った時から」
これは自分の台詞だ。ずっと言えずにいた言葉、自分が言うべき想いなのだ。
「ずっと…好きだった」
想いの堰が切れる。余すところなく、唇で、舌先で、それを伝える。しろがねがもっととキスを強請るので、それに応える。緩やかにキスが肌を滑り、耳朶から首筋へ、鎖骨へと落ちて行く。薄い皮膚越しに濡れた温かさを感じ、しろがねの身が捩れた。
お互いに、口移しで深くて濃い味の愛を確かめ合って、名残惜しく唇をほんの少しだけ離す。本当はもっとキスを、もっと抱き締めていたいけれど、しろがねの仕事に支障を来たすわけにはいかないし、これ以上はのっぴきならなくなって店で最後まで致してしまいそうだ。
「ちくしょー、帰したくねぇなぁ」
「私も、一緒にいたい」
「でも、そーゆーワケにもいかねぇんだよなぁ」
しぶしぶ腕を解く。


「今日…もう一度、寄れるか?」
「閉店後になりそうだけれど。それでもいい?」
「おまえのためなら、何時でも開けてる」
ドアベルの音とともにしろがねを送り出す。
「じゃ。また後で」
「まいど」
唾液に濡れた唇を互いの親指で拭き合って。見送り見送られるふたりのこれからを、姫紫陽花の葉を打つ雨が祝福した。



End
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