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目蓋の裏の君
薄暗く狭く小さな店。色の濃い壁にはたくさんの額が飾ってあり、そのどれにもサーカスの写真がはめ込まれている。古惚けた写真。かつての盛栄を懐古するかのように時間を切り取った写真が所狭しと並んでいる。
それらを眺める視界を白く霞ませる煙草の煙がゆらりゆらりと漂い流れる。
「アタシがあのヒトとサーカスをやっていた頃はねぇ……」
赤い口紅をかっきりと引いた体格のいい中年女性が、ふあっと、溜息混じりの白煙を吐き出した。店の中に充ちる酒の匂いが濃厚になり、客が最後のひとりになると出てくるママのお決まりの台詞。
「あ、とうとう出たね、ママの昔話。これが出るとママの酔いが回った証拠だからな」
最後の客が席を立つ。ママの思い出話は店仕舞いの合図。
店にふたりしかいないホステスは客に謝りながら店の外まで送っていく。
「ごめんなさい、いつもいつも」
ふたりのうち、年上らしい黒髪のホステスが改めて客に頭を下げる。
「いいよ、いつものことだ。それにしてもこの店も一時はどうなるかと思ったけれど持ち直したようじゃないか」
「ええ、何とかね」
「新しく入ったバーテンのおかげかな。あの綺麗な顔をした」
「多分ね。彼目当てで有閑マダムの来客が増えたもの」
もうひとりの明るい髪色のホステスが答えた。
締め切れていない店の扉の隙間から、バーカウンターの掃除をしている銀色の髪の青年が見えた。ホステスふたりが
「本当にいい男なのよねぇ」
とうっとりと吐息する。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、また来てね」
ホステスたちは客を見送ると表の灯りを消し、扉に鍵をかけた。
灯りの落ちた店の看板に踊る文字は『スナック・サーカス』。
「ママ、大丈夫?」
「仕方ないわねぇ」
娘のノリ子とヒロ子に窘められても
「あの時の仲町サーカスの人気ったら…」
とシノブママの昔語りは続く。
「お水をどうぞ」
その声にノリ子とヒロ子が顔を上げると、この店の新入りバーテン、しろがねがお冷をのせたトレーを手に立っていた。煌く銀色の髪と瞳。中性的な面差しが神秘的な美青年。
ノリ子とヒロ子の間でどちらがしろがねからトレーを受け取るかで悶着があったが、シノブが太い腕を伸ばしてコップを掴んだことであっさりと勝負はドローに終わった。
「ありがとうね、しろがね」
「いいえ」
しろがねは感謝の言葉にもニコリともしない。
「でもホント、ごめんなさいね。閉店後の店の掃除なんかも皆やってもらっちゃって」
「しろがねのおかげで客の入りもよくなったし…」
「いいえ、僕もこの『サーカス』の一員ですから。家族として当然のことです」
やはり、しろがねはニコリともせずに頭を下げると、最後の客のテーブルを片付け始めた。
ノリ子とヒロ子は、ほう、と熱い視線を送る。
「しろがねって客が退けた途端にクールになるのよねぇ」
「どうしてなのかしらねぇ、客がいる時はとてもにこやかなのに」
「にこやか、って言ってもしろがねの笑い顔は完璧な『営業用』じゃないの」
コップの水を一気に飲んだシノブは幾らか回復をしたのかふたりの話題に口を挟んだ。
「それが分からないようじゃあ、アンタたちもまだまだねぇ」
そう言いながら新しい煙草に火をつける。
「でもそれが…ミステリアスなのよねぇ」
「抱かれたいわ…」
彼氏のいないノリ子とヒロ子はしろがねの横顔に秋波を送るが、本人はそれに気付く気配もない。
「ま、アンタたちが夢中になるのも分かるわ…しろがねはあのヒト、若くして死んじまったフサオにそっくりだもの…」
シノブもしろがねに亡き夫の面影を映す。
「いい男…身体が疼くわね」
「やめてよね」
「冗談じゃないわよ?」
男日照りに喘ぐ女三人の視線に身の危険を覚えたのか、しろがねはゴミをまとめた袋を手にすると店の裏口を出て行った。
「ふう…」
しろがねはゴミ袋を店の裏手に出すと汚れた壁に持たれかかり遠い瞳を上に向けた。狭い夜空。建物と建物に狭められた宙は細長くて、星も見えない。ちっぽけな自分は都会の隙間から天を仰ぐ。
彼女がいるかもしれない天を仰ぐ。
しろがねは苦しそうに瞳を閉じるとその目蓋の裏に現れた面影に胸を痛め、ぎゅっと拳を握りしめた。
「しろがね?」
二階の窓から少女の声が降って来た。しろがねは急いで顔から苦しそうな表情を消し、何事もなかったかのように「マサル子お嬢様」と呼びかけた。
「すみません。お嬢様を起こしてしまいましたか?」
「ううん。私がちょっと目が覚めちゃっただけ」
マサル子はしろがねに見られないようにして目頭を拭った。太い眉毛の下の瞳は心なしか赤い。彼女は悪夢を見て目を覚ましたのだ。
大事なヒトが自分を守って筋肉質な左腕を残して消えてしまう夢を。
「そうですか…」
マサル子は自分にだけは笑みを浮かべるしろがねを可哀想に思う。その笑みだって吹いたら消し飛んでしまいそうなくらいに淡いものなのだ。
「しろがね…まだ笑えないの?」
しろがねはマサル子の言葉に、再び苦しそうな顔になる。
「僕は…あの時、本当に笑顔を必要としているヒトに笑ってあげられませんでしたから…」
「ナルミ子お姉様のため?」
しろがねは、静かに、でも大きく頷いた。
「僕が笑ってあげることができたならナルミ子は無事に帰ってくることができたはず…」
そして自分もまた、こんなに苦しい想いをすることはなかったはずなのだ。毎晩毎晩、いなくなってしまったナルミ子に想いを馳せて心が血の涙を流すことはなかったはずなのだ。
「しろがねは…ナルミ子お姉様のことが好きなんでしょう?」
「……分かりません」
これまで誰のことも受け入れたことのない心は彼女のことをどう想っているのか、自分では分からない。けれど、しろがねの中からナルミ子の生き生きとした笑顔が消えないのは確かなことなのだ。
「そうよね…私だって同じ女として憧れるわ…ナルミ子お姉様のこと。やさしくって」
「お節介で…でも、いつも笑っていた」
「とても強くって…お姉様がいなかったら今の私はないわ…」
「太い腕が温かくて。僕を包むようにして抱き締めてくれた…大きなヒト、だった…」
心も体格も、大きなヒトだった。
しろがねを叱り飛ばしてくれたヒトなどこれまでいなかった。
私はアンタの女になる、あの冗談も、忘れられない。
「もしもまた…ナルミ子に会えるのだとしたら、今度こそ彼女に笑ってあげたい」
「だったら、それまでに笑えるようにならなくちゃ、ね。しろがね!」
マサル子は窓から身を乗り出してしろがねを励ました。
「そうですね…僕たちは僕たちで頑張って生きていきましょう」
僕は君の事を絶対に忘れない。
長い黒髪も、星が光る艶やかな瞳も、僕よりもはるかに高い身長も、温かく力強い腕も手の平も、女にしてはかなり男らしい眉も顎も重低音声も、女性的な柔らかさは皆無の大胸筋の盛り上がった大きな胸も、チャイナ服のスリットから覗いたおそらく僕のウェストよりも太いかもしれない逞しい大腿筋も、何もかもを忘れない。
「…しろがねって…かなりの悪球打ちよね…ゲテモノ食いとか言われたこと、ない?」
「ないですよ?それってどういう意味なのでしょう?」
「いいの。しろがねって趣味がわ…いいな、っていうことだから」
マサル子は瞳を泳がして、部屋に消えた。しろがねはマサル子を見送って、そのまま瞳を再び狭い夜空に向ける。
「ナルミ子……美しい、ヒトだったな……」
しろがねは拳を突き出し不敵に笑う目蓋の裏の君に想いを馳せると幾分吹っ切れたような顔をして『スナック・サーカス』へと戻っていった。
End