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夏の気配
今日は朝からツイてない。
いつも乗る電車に間に合わなくて(それなら始発だから多少は空いているのに)、その次の電車は車両故障とかで大幅に遅れて、普段よりも酷いぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗る破目になってしまった。おかげで今日は大遅刻だ。遅延証明をもらわないといけない。それも手間だ。鳴海は大きな溜め息が出る。
おまけに今日は朝から気温が高い。初夏だから仕方ないのかもしれないが、筋肉の塊の彼はどちらかというと暑いのが苦手だ。背が高い分、少しだけ新鮮な空気を吸うことはできるけど、それでも満員電車ってのは好きになれない。鳴海はネクタイを緩めた。
全く、日本て国はゆとりがなさすぎなんだよ。皆しておんなじ時間に会社に行って、おんなじ時間に家に帰って、休みだって滅多にとれないのに盆か正月に一斉にとるしさ。朝だってのに、一日は始まったばっかだってのに、皆、憂鬱そうにくたびれた顔をしてる。
そもそも、このスーツってのが気に入らない。このクソあちーのに、なんでこんなモノを律儀に着にゃあならんのか。
ブチブチと文句を言いながらも自分もまたしがないサラリーマンなのだ。働かないと食べていけない。
電車が走る音が変わったので鳴海は身体を屈めて窓の外を眺めた。電車は川の上に架かる鉄橋にさしかかった。天気がいい。南風をうけて川面がキラキラと輝いている。
ああ、夏が近づいているな。
……ふん、夏なんて。
彼女も、特定な好きな娘もいない鳴海にとって、夏は湿気が多くてバカみたいに暑くて、ただ鬱陶しいだけの季節にすぎない。そういった気の利いた存在がいれば、毎朝家を出ることすらも楽しいと思えるのかもしれないけれど、いないものはしょうがない。
代わり映えのしない景色。家と会社を往復するだけの日常。鈍化した心。
灰色の空気の中にどっぷり浸かっている自分にもう疑問すら持つことも億劫で、鳴海は満員電車に揺られていた。
橋を渡り終えると電車は次の駅に停まった。降りる人はほとんどいないのに、乗ってくる人ばかりで辟易する。
さらに密度の上がった車内へ最後に乗り込んできたのは、とても目を引く銀髪の女。
向こうも自分の行く手に聳え立つような鳴海の顔を思わず見上げて見るからに「大きな男だな」という顔をした。彼女は鳴海とドアのほんの隙間に滑り込むと、鳴海に身体を寄せるようにして閉まるドアに引っ掛からないようにしている。ドアが閉まると彼女はきもちドアに寄りかかって手にした文庫本に目を落とした。
がたん。
電車が動き出す。がたたん。ごととん。…がたん。ごとん。……がたごとがたごとがたごと……。
おかしいな。電車の音かと思っていたのに、この騒々しい音を立ててるのはオレの心臓じゃねぇか。
銀色の髪の女から目が離せない。
すげえ美人。瞳も銀色だ。うわ、睫毛長っ。外人…なのかな?肌が白い。
あんまり化粧してないみたいだけど、それでもものすごくきれいな顔をしてる。学生かな?OLかな?何だか甘くていい匂いがする…。
頭上から降ってくる不躾な視線を感じたのか、彼女は首を急角度に上へ向け、鳴海の顔をまじまじと見た。びたっと合ってしまった視線が気まずくて、鳴海は慌てて目を逸らし、目の前の広告に目を遣った。彼女もまた本の頁に目を戻した。
じろじろ見られて気を悪くしたんかな?
そうは思いながらもまた彼女を見てしまう。
満員電車の距離って近くても遠いんだよな。
恋人みたいにぴったり寄り添っていても、所詮は赤の他人だもんな。
銀色の髪の彼女に目は釘付けで、電車が揺れるたびに身体にかかる彼女の体重が心地よくて、ドアを手でつっぱねて背中で他の客の圧力を押し返して彼女のためのスペースを作ってやるなんてオレって彼氏みたいじゃねぇ?とか考えて、いったいどこで降りるんだろ?とか思っていたら、鳴海は自分の降りる駅をふたつも乗り過ごしていた。
……ま…いっか。
どうせ今日はそうでなくとも遅刻だし。このまま、彼女の降りる駅まで付き合っちまうか。
だって、降りてしまったらもうおそらく、二度と会うことはない。そう考えると鳴海の胸はきゅんと痛くなった。
わー、オレって恋する青少年みてぇ。
いやいや。自分をちゃかしてもいられない。どうしようか、声をかけようか。
何て声かけよう…。
もしオレの彼女になってくれたら嫌いな夏もきっと楽しくなる。
休みも家でダラダラ過ごすんじゃなくて、ふたりでどこかに出掛けよう。
海もいい。プールもいい。花火もいい。彼女と一緒にTDLに行ってみたい。オレ、女の子と行ったことないもんな。
連休には二泊くらいでどっかに旅行に行ったりとかして…。
鳴海は一気に夏がいい季節に思えてきた。
先走った妄想に鳴海が耽っていると、電車が急にブレーキをかけた。
銀髪の女が勢いよく、鳴海の胸に飛び込んできて、鳴海は思わずその身体を抱き締める。
車内アナウンスが急ブレーキをかけたお詫びと、その原因をまくしたてているが鳴海はちっとも耳に入ってこなかった。不慮の事故とはいえ、羽根のように軽い彼女の身体が自分の腕の中にあるのだから。
彼女に気づかれない程度にほんのちょっとだけ、抱き締める腕に力を込めてみた。
「ああ!」
女が声を上げたので鳴海は急いで腕を解く。
「はいっ!すんませんっ!」
てっきり図々しく抱き締めていた自分に対する抗議だと思っていたのに
「いや、謝るのは私の方だ…これ…すまない…」
見ると鳴海のワイシャツに彼女のつけていた淡い色のルージュがしっかりとついている。
キスマーク、嬉しいじゃねぇか。
「これから仕事なのだろう?こんなものつけてたら……私は次の駅で降りるから一緒に降りてもらえるか?できるだけ私が落としてみるから。あ、でも、会社に急いでいる…?」
申し訳なさそうに自分を見上げる彼女に鳴海は「全然急いでない」と首を振る。
何で、朝からツイてない、なんて思ったんだろう?
電車に乗り遅れなかったら彼女に会えなかったし、満員電車でなければこんなハプニングも起きなかった。彼女に会えて、きっかけができた。最高にオレってツイてるじゃねぇか?
次の駅でふたりは降りた。
チャンスは一度!これを逃したら次はねぇ!絶対に口説き落とす!
水のあるところに急ぐきれいな彼女を横目で見ながら、鳴海は気合を入れ、大きく深呼吸をした。
吸い込んだ空気は夏の気配がした。
End