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エレオノールは鳴海のことを嫌っても怒ってもいなかった。
ただとても吃驚してしまっただけだった。
そして、どんな顔して鳴海に会えばいいのか、どんな態度で鳴海に接すればいいのか全く分からなくなって混乱してしまったのだ。
だって、鳴海が、自分にキスしたのだ。
それも軽いキスではなくて、深い深い大人のキス。
エレオノールにとってファーストキスだった(もちろん鳴海も)。
エレオノールは鳴海にキスされても嫌じゃなかった。だから自分はきっとやっぱり、鳴海が好きなのだ、と思った。
ただ、もう動揺してしまって、頭の中が真っ白になってしまって、少し怖くて逃げてしまった。
どんなに大人びていても所詮は15歳の女の子なのだ。
鳴海は私を、だ、抱きたいと思ったのだろうか?そう考えただけでエレオノールの頬は染まる。
それとも女の子だったら誰だって良かったのだろうか?別に、私じゃなくても…。
そう考えると心が胸が痛くなる。
恥ずかしがらないで鳴海に訊けばよかったと、エレオノールは後悔した。
訊けばよかった。ナルミは私をどう想っているのか、と。
次の夏、お盆に鳴海が帰ってきたら訊こう。エレオノールは心に決めた。
そして私も言おう。ナルミのことが好きだって。
エレオノールは高校生になった。
髪の毛は鳴海のために短くしたまま、お盆が来るのを待ちわびた。
でも。
鳴海は来なかった。来たのは両親だけ。
エレオノールはがっかりした。
あの時、私が拒んだのを、そしてその後顔を見せなかったことを怒っているのだろうか?
傷ついているのだろうか?
もう、私に会いたくないのだろうか?
「ナルミは元気にしていますか?」
エレオノールの問いに鳴海の両親は、「鳴海は向こうで元気にやっているよ」と笑った。
エレオノールがホッとしたのも束の間、
「最近、ガールフレンドもできてね、たまに連れてくるからまいっちゃうわ」
その言葉に、エレオノールの目の前は真っ暗になった。
エレオノールは、いやらしい嫉妬心で飽和している自分の心が嫌で悲しくて淋しくて、ひとり泣いた。
私がナルミを受け容れなかったから、ナルミは他に好きな人を作ってしまった。
鳴海が誰かを抱き締めている姿を、誰かとキスを交わしている姿を、誰かと愛し合っている姿を想像すると、辛くて辛くて死んでしまいそうだった。
その次のお正月は鳴海の両親も来なかった。おじいさんが亡くなったので来る必要もなくなったのだろう。
アンジェリーナが淋しい正月ね、と言った。
お正月って小さい頃からほとんど加藤家と合同みたいなものだったから、家族4人のお正月なんて世間では当たり前なのかもしれないけれど、エレオノールには淋しいものでしかなかった。
これでもう一年近く、鳴海の顔を見ていない。
その次のお盆も鳴海は来なかった。
手紙だって電話だって、今まで一度もしたことがない。
それなのに突然したら、変だときっと思われる。鳴海には彼女だっている。きっと迷惑になる。
ギイは時々鳴海と連絡を取っているようだ。男同士、兄弟みたいなものだからだろう。
エレオノールは兄が羨ましかった。
エレオノールが高3のお盆も鳴海は来なかった。
匂いたつように美しく成長した妹が、去年に引き続き今年もまた塞ぎこんでいる。
「どうかしたのかい?エレオノール」
ギイは優しく問いかける。
「…何でも、ない…」
「ナルミが来ないことがそんなに気になるのかい?」
「別に…」
「エレオノールはナルミが好きなのだろう?」
ギイの言葉にエレオノールは耳まで赤くなる。
「そんな、好きなことなんて、ない」
「そうか。そうだろうな。ありえないな。あんなに泣き虫で弱虫で貧弱でいつもいつもエレオノールのスカートの後ろに隠れていたナルミのことが好きだなんてね」
「それは昔の話だろう?それに小さい頃だって、ナルミは優しい子だった!」
エレオノールはムキになって反論して、兄の口車に乗せられた自分に気がついて、もっともっと顔を赤くする。
「でも…鳴海には…彼女がいるから…」
「それは去年の話だろう?今はいないとナルミは言ってたぞ」
パッとエレオノールの顔が明るくなる。
「特定の、彼女は、ね」
一転、エレオノールの顔が曇る。
「ま、男なんてものは我慢できないものなんだよ。どこかで吐き出さないと犯罪者になってしまう。彼みたいな青年なら尚更だよ」
「よく、わからない。ナルミの気が多いってこと?」
「そうじゃない。ナルミには好きな人がいるんだけれど、その人と結ばれることが難しいから何と言うか、とりあえず、ね」
「何だか、そんなの嫌」
「その好きな人と付き合うことができたら、彼は余所見なんか絶対しないのだけどね」
「その好きな人って誰?」
「さあ、ね」
そこまでは教えてくれないよ。
ギイはそう言うとエレオノールの頭を撫でた。
「早く春が来るといいな、エレオノール」
「まだ夏だろう?」
怪訝そうに見上げるエレオノールにギイは含みを持たせた微笑を向けた。
翌春、エレオノールは短大生になった。
やはりエレオノールの髪の毛は短いまま。
母親に似て豊満な胸は少し邪魔で、肩がこる。
ある晴れた日の朝、エレオノールはリビングでキーホルダーを玩んでいた。
自宅の鍵にくっつけた、もう古ぼけて傷だらけでメッキの部分なんかほとんど剥げてしまったから元の絵が何だか分からない、友達には「もうそんな汚いの変えたら」といつも言われる、でもエレオノールにとっては絶対手放せない、大事なキーホルダー。
「それでは行って来ます」
「いってらっしゃい」
先に家を出るギイを見送るため、エレオノールは玄関へと足を運んだ。
「ああ、そうだ。今日は何か用事あるかい?」
「いいえ、何もない」
「そうか、なら今夜、僕と食事をしないか?入学祝いだ。何でも奢ってあげよう」
「本当?」
「それじゃ、6時半に僕の会社の前に来てくれ」
「分かった」
本当に美しくなった妹をギイは感慨深く見つめる。
3年半ぶりか、彼女に会ったらさぞかし吃驚することだろうよ。
「またあとで」
エレオノールはギイを見送った。
エレオノールは約束の5分前に着いた。彼女は時間にとても正確。
ギイの会社のエントランスが見渡せる、表の柱に寄りかかって兄を待つ。
通りすぎる人が皆、エレオノールを振り返って見るけれど、この会社の男の人たちは銀目銀髪の彼女が誰の身内か見ただけで分かってしまうので、あえて声をかけてくるようなことはしない。むしろ女の人たちの方がキャーキャーとうるさいかもしれない。
「まだかな…」
エントランスに目をやりながら、ぼうっとしていると、自分が大きな影の中に入ったことに気がついた。
影の元を何気なく見上げる。
それはものすごく大きな男。
エレオノールよりも30cm近く大きいのではないだろうか。
黒髪を長く垂らして、真っ黒な瞳でエレオノールを覗き込んでいる。
エレオノールは今までこんなに驚いたことはない。
「エレオノール」
「ナルミ?どうして…?」
「ギイとここで待ち合わせ。エレオノールこそどうした?」
「私も兄と…」
ちょうどエントランスからギイが出てきた。
ギイはふたりの姿を認めるとすっと目を細くして、そのまま手を振って立ち去った。
エレオノールはすぐに悟った。
これは塞ぎこんでばかりいる私のために兄さんが仕組んでくれたこと。
「兄さんたら…」
エレオノールはギイからの『入学祝い』を受け取った。
鳴海もこの春から大学生になった。それも日本の。
エレオノールに嫌われたと思ったものの、中国に帰ってからもどうしても気になって仕方のなかった鳴海は才賀家へ国際電話をかけた。それに出たのはギイだった。鳴海はギイにみんな打ち明けた。
自分がエレオノールにしてしまったことも、自分がエレオノールをどんなに好きなのかもみんな。
そうしたらギイが言ったのだ。
「可愛い妹を拳法バカになんかやれるか。僕や彼女の父親を見てみろ、文武両道だろう?その上、ルックスも非の打ち所がない。まあ、君のルックスは不問にするよ、今更どうしようもないからな。でも脳ミソは何とかなるだろう?ナルミが小さい頃から勉強ができなかったことくらい百も承知だが、エレオノールと付き合いたいならそれなりになりたまえ」
そしてギイはいくつかの日本の大学の名前を並べた。
それは日本人なら誰でも知っている、小さい頃から中国で育った鳴海ですら当然のように知っている一流大学の名前ばかり。
「今言ったうちのどれかに入学してからでなければエレオノールに会うことは許さない。エレオノールを傷つけた代償だと思って精一杯精進するんだな」
鳴海は頑張った。
それまで机に向かったことなどないのに、それこそ二桁の足し算から、小1の常用漢字から勉強しなおさなくてはならなかったけれど、鳴海は拳法の稽古以外はテキストと睨み合うことにした。
大学受験は一年見送った。失敗は許されない、一発で受からないと意味がない。
ギイには「意気地なし、身体のわりに小心者なのだな」と笑われたけれど、
「大きな獲物を仕留めるためには慎重になることも必要なんだよ」
と言い返した。
この場合の『大きな獲物』とは一流大学のことではなく、エレオノールのことだ。
そして、今春、努力が実り、鳴海は見事エレオノールに告白する権利をギイから勝ち得た。
勝ち得たけれど。
いざとなるとエレオノールに会う勇気が出ない。
ギイはエレオノールが鳴海をどう想っているのかまでは教えなかったので(もちろん面白がって)、いまだ嫌われているかもしれないと思うと、怖くて電話もかけられない。
そんなこんなで鳴海が日本に戻ってから一ヶ月が経っていた。
それが。
ギイの粋な取り計らいで今エレオノールが自分の目の前にいる。
会わなかった3年半の間にめっきり女らしくなって、破格にきれいになって、
大学に入ったくらいで釣り合いがとれるのか不安になるくらいのいい女になっていた。
「よう…元気そうだな…久し振り…」
鳴海の笑顔をエレオノールは少し眩しそうな顔で見上げた。もう私のスカートに隠れることは絶対できないくらい大きくなってしまったけれど、ナルミの笑顔はちっとも変わっていない。
エレオノールが微笑みで応えたので、鳴海の「嫌われているかもしれない」という不安は徐々に溶けていって、だから鳴海は唐突に
「付き合って欲しい」
と告白した。
「兄としてはいささか複雑な心持ちだが……可愛い妹が幸せになることの方が優先される事柄だろう。ああ、そうだな、今日はおそらく帰りが遅いだろう。もしかしたら朝帰りになるかもしれないな。これも兄として複雑だが仕方ない、口裏を合わせてやることにしよう」
中身がまだ片付いていない段ボールの箱が部屋の隅に詰まれた、ワンルームマンション。
小さな灯りだけが灯るその部屋のベッドの中で、鳴海とエレオノールは汗ばむ身体を寄り添わせていた。
「痛かったか?すまねぇ、ちょっとがっついた」
エレオノールはううん、と首を小さく振る。
鳴海の胸の筋肉は大きく盛り上がっていて、アバラが浮いていたなんてとてもじゃないけど思えない。
エレオノールは鳴海の胸に額を擦りつけながら、ふと自分以外の誰かもこうしていたのだ、と思い当たった。
「ナルミ…中国で女の子とたくさん遊んでいたのだろう?」
ヤキモチなのは分かっているけれど、問い質さずにはいられない。
だって、私はナルミ以外の男には目もくれず誰とも付き合ったことがないのに、ナルミは…。
「た、たくさんだなんて…それに遊んでたなんて、人聞きの悪ぃ。あれは練習」
「練習?」
「ギイが言ったんだ。『おまえは女の扱い方が雑だからエレオノールに拒まれたのだ。中国にいる間、女を抱く練習をしておくといい。エレオノールとの本番のために』って」
「兄さん、最低……ナルミも」
「え?オレも?」
エレオノールに「最低」と言われ、おろおろする鳴海にエレオノールは「もういい」と言った。
もういい。全部、私のために頑張ってくれたのだから、もう、いい。
「どうして隣の家に住まないのだ?」
「だってよー。告白してダメだったら、合わす顔ないだろが?今なら、隣に住んでて付き合うの、ちょっと恥ずかしいだろ?って言えるけど」
鳴海は大きな手の平でエレオノールの頬を包むと、その舌を自分の舌でふわっと絡めとった。
「んっ…」
鳴海の唇は少しずつエレオノールの肌を滑らかに下っていく。エレオノールの身体は桃色に染まった。
「明日さ…おまえんち、挨拶に行くから、ちゃんと…」
「うん…」
エレオノールは夢心地で鳴海に返事をした。
4年後。
才賀家のお隣の加藤家にまた人が住むことになった。
今年から働き出す旦那さんと、しばらくは共働きが続きそうな奥さんの新婚夫婦。
身体のものすごく大きな夫と、銀色の髪と瞳をした新妻はとても仲がよくて、朝もふたり並んで出勤する。
家族が増えるのも時間の問題ね。
ご近所さんが囁く中、
端のほつれたハンカチと、傷だらけのキーホルダーがふたりのカバンの中で笑った。
End