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The cat's whiskers.
(上)
桃の花が咲いてうららかに晴れた日、真っ黒な仔猫のナルミは自分の家の瓦屋根によじ登り、あまりにも暖かくて心地よくて居眠りをしてしまいそうになりながらも、斜め向かいの家の屋根をじっと見上げていた。
こんなにお天気のいい日の午後はいつも日向ぼっこに出てくるから、もう少し待っていれば……
ああ、でも……その前に眠っちゃいそう……。
頑張っても瞼が仲良しになってしまう。これで駄目ならお昼寝しよう。
最後にもう一度だけ、と重たい瞼を持ち上げると、その細い視界に白い猫の姿が飛び込んできた。ナルミの眠気は一気に覚めて、食い入るようにその猫を丸い黒い目で追いかける。白猫、というよりは銀色の若い雌猫はしなやかにぐうっと伸びをすると、屋根の上に寝転んだ。うつ伏せになって長い尻尾をゆらゆらとさせている。
「きれーだなぁ……」
銀色に光る艶やかな毛並み、すらりとした姿態、遠目に見てもそれと分かる器量良し。ここいらじゃ知らない猫はいない美猫だ。ナルミを飼っているおじいさんは彼女のことを「しろがね」と呼んでいた。それは彼女につけられた名前ではなくて、ただ単にその体毛の色を指して呼んでいただけなのだけれど、ナルミはそれが彼女の名前なのだと思い込んでいた。
初めてしろがねを見かけた日からずっと、ナルミは今日みたいに晴れた午後には屋根の上で待つようになった。向こうはちっとも自分に気がついてくれない。それも仕方がない。自分はまだ生後6ヶ月にも満たない仔猫なのだ。それも身体が小さくて、どちらかというと病弱で。ミルクだって好きじゃない。
しろがねはもう大人の猫だから、こんなチビは物の数にも入らないのだろう。
「あ、また来た!」
しろがねの傍に割りと大きな雄猫(ナオタ。ご近所の三牛さんちの飼い猫。2歳半)がのっそりとやってきた。ナオタはしろがねをくどくためにやってくる常連だ。今日も何やらしろがねにアピールを始めた。
ナルミはしろがねが靡いてしまやしないか、ハラハラドキドキする。
しろがねはうつ伏せのまま気のない顔で無視しているので、小さなナルミはほっとした。相変わらず、自分を全く相手にしないしろがねに、ナオタは実力行使にでることにしたらしい。ナオタはがばっとしろがねの上に覆いかぶさった。
「あ――――!!」
ナルミもまた、がばっと跳ね起きる。
「しろがねになんてことすんだ!」
ナルミが遠くから憤慨してもどうにもならない。
ナルミの心配は杞憂に終わった。目にも止まらぬ速さでしろがねの手が一閃するとナオタの顔には深い引っかき傷が縦に刻まれ、たり、と赤い血が滴った。わたわたと何事か叫びながら、ナオタは屋根の上からあっという間に姿を消した。
しろがねは大きく肩で息をすると、再び屋根の上に寝そべった。
おちおちなんかしていられない。ナルミはそう思った。
このままじゃ、しろがねに自分の存在を知ってもらえないばかりか、誰か他の猫にしろがねを取られてしまう!
オレだってまだ子供だけど、雄なんだから!
ナルミはすっくと立ち上がると、今すぐしろがねのところに自分もアピールしにいくことにした。
銀色の毛にお日様をキラキラと映しながら若い雌猫は流れる雲を見つめた。
日本人の旦那さんとフランス人の奥さんの夫婦に飼われているその猫はエレオノールという名前だった。1歳2ヶ月になる彼女はご近所の雄猫のあこがれの的で、いつもいつも求愛を断るのが忙しい。
こんないいお天気の日はゆっくりのんびりしていたいのに。
ほらまた。
視界の隅に黒いものが見えた。とたとたと近づいてくるその影にエレオノールはイライラと叫んだ。
「もう、いい加減にしてくれ!私は…」
見ると、そこにいたのは真っ黒黒の仔猫。それもチビで細くてひ弱そうで、エレオノールは文句を言う気も失せた。こんなのを叱り付けるのは大人気ないことだ。だいたい、雄とも呼べない、赤ん坊だ。
「…私はおまえのママじゃないぞ」
「わかってら。しろがねがママだったら、オレはこんなに黒いもんか」
しろがね?誰それ?エレオノールがナルミを訝しい瞳で見ていると、鳴海はトコトコとエレオノールの傍までやってきて、その柔らかなヒップにしがみついた。
「…何を…している?」
「アピール」
「……」
ませガキ。
エレオノールが手を伸ばして、指先でナルミの額をピンとはじくと、ナルミの身体はあえなく屋根の上へと転げ落ちた。
「赤ん坊はとっととおうちに帰ってママのおっぱいでももらうがいい。
おまえがそんなことをするには、後、まあるいお月様を6回は見ないとダメだ」
「もうとっくに乳離れした!もうすぐ6ヶ月になる!それにオレの名前はナルミってんだ!」
「ふうん。あんまり小さいから2ヶ月くらいの赤ん坊かと思った」
しろがねは、きれいだけどイジワルだ。でも嫌いになんかなれない。だって好きなんだもん。
ナルミは懲りずにエレオノールのヒップによじ登る。
「こら、いい加減にしないか?」
「だって……オレ、しろがねが好きだから……でも、こんなチビだから、オレが大っきくなるの待ってたらしろがねは誰かのお嫁さんになっちゃうだろ?だから…」
子供のクセにくすぐったいことを言う。エレオノールはナルミの首根っこを掴むと、自分の目の前に置いた。
「気持ちはよく分かった。でもそんなことをしても無駄だ。そんな小さな身体では…せめて私より大きくならないと私のお婿さんとは認めない。それに私は今、発情期ではないしな」
「でも…!」
真っ黒な丸い瞳が銀色の瞳を真剣に見つめる。
「安心しろ。私はまだ誰のものにもならない。私が好きになれるような雄にはまだ出会っていないから。だから、早く大きくなる努力をすることだ」
柄にもなく、何を私は子供を励ますようなことを言っているのだろう、エレオノールは自覚があった。単なるきまぐれかもしれない。
「分かった…でも、ここに遊びにくるのだったらいい?」
ナルミはエレオノールににこう、と笑う。その笑顔があんまりお日様だったので、エレオノールは思わず「かまわない」と答えていた。
まあ、いい。相手は子供だ。適当にあしらおう。
今は子供でも、そのうち大人になることを、エレオノールはすっかり忘れていた。