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The cat's whiskers.
(中)
暖かい日和が続く。もうすっかり春だ。桜のつぼみももうじき開くだろう。
エレオノールは優雅なしぐさで屋根の上にやってくると、何気なく視線だけ、チラリ、と道路を挟んだ斜め向かいの家の屋根へと向けた。そこには真っ黒な仔猫が一匹、こちらをじっと見ている。彼はエレオノールの姿を認めると喜色満面の笑みを浮かべ、たどたどしい足取りで屋根を下り始めた。
エレオノールは、私はおまえのことなど興味がないのだ、と決してそちらに顔を向けない。
エレオノールは興味ない風を装いながら、内心ハラハラして仕方がない。
ほら、そんなに怖がらないで勢いよく飛び降りればいい……ああ、おっこちた。塀を越えるにはその桃の樹よりもその隣の樹の方がおまえにはいい足場になる枝があるのに……ああ、またおっこちた。
ナルミが道路を渡ろうとしたとき、白い「くるま」がその前を横切った。エレオノールはまさか、と身体を思わず起こす。
ああ、大丈夫だったか…。
エレオノールはほっと胸を撫で下ろした。
「む…何をしているのだ、私は。あんなチビ、どうでもいいじゃないか」
それからたっぷり5分以上経って、ナルミはようやくエレオノールのところに到着した。
「やあ、しろがね」
にこにこしながら、彼女の胸元に丸くなるこの小さな存在を、エレオノールはやっぱり憎めない。私の名前はエレオノールだ、といくら言っても聞かないので訂正することも諦めた。おかげでしろがね、と呼ばれることにも慣れた。
「ナルミ。あの『くるま』という鉄の塊は怖いのだ。上に乗っかられたら猫は潰されてしまう。道路を渡るときは気をつけろ」
「見てたの?」
「た、たまたまな」
動きはまだまだ心もとないし、まだどちらかというとひょろひょろした体つきだけど、初めて会った時よりは背も伸びて大きくなった感は否めない。
でも、まだまだ子供だ、とエレオノールは思う。
ナルミはエレオノールにいろいろお話をする。
白い蝶々がたくさん飛んでいたこと。庭の赤い金魚に気をとられて水に落っこちちゃったこと。
干したばかりのお布団の上がとても気持ちいいこと。おじいさんが「桜の花がもうじき咲くな」と言ったこと。しろがねの言うとおり、好き嫌いしないで何でも食べていること。
エレオノールは黙ってその話を聞いているが、その表情は我知らず、とても柔らくて優しいものだ。
ナルミはそのきれいな顔を見ているのが嬉しくてたくさんたくさんお話をする。
お話をするたびに、日を追う毎に、声がだんだん低い声になっていく。
子供の声から少年の声に変わっていく。
ナルミは、エレオノールのナイトだ。
ナルミが傍にいると他の雄猫が寄ってこない。子供連れだとエレオノールを口説きづらいのだそうだ。
先日もノリとヒロの兄弟(仲町さんちを根城にする半ノラ。だいたい2歳代)がやってきて、
「おまえ今日もいるのかよ?おまえがいると調子狂うんだよなあ」
と言ってそそくさと帰ってしまった。
エレオノールもこれは楽だ、と思っていた。雄猫をあしらうよりもナルミの話を聞いていた方がずっとおもしろい。
そのうちに、エレオノールはこの陽だまりの匂いのする小さなナルミを可愛い、と思うようになった。
その日から春の長雨が続き、表に出られない日が続いた。
何日かエレオノールはナルミに会わなかった。会えなかった。
雨の雫が伝う窓の外を何度も何度も見遣りながら、エレオノールは心の中が落ち着かない。
なんでだろう?なんでだろう?わからない。なんでだろう?こんなことは初めてだ。
気がつくと、ナルミのことを思い出している。
小さいナルミは今何をしているだろう?
ちゃんと好き嫌いしないで食べているだろうか?雨に濡れて風邪など引いたりしてないだろうか?
「どうしてだろう?」
エレオノールは自分で自分が不思議だった。自分で自分の心が分からないことなんて、今まで一度だってなかった。
やっとお日様が顔を出し、桜の花がチラホラとほころび始め、久し振りに穏やかな日。
エレオノールはいつもよりずっと早くに屋根の上に出た。すぐにナルミの家へと顔を向ける。
ああ、いた。ナルミは家の前の塀の上。何だか胸の中が熱くなる。
でも、ひとりじゃない。
ナルミの他に、もう一匹猫がいる。あれは3軒隣向こうの道場で飼われている三毛猫(ミンシアちゃん、ナルミより少しお姉さん)だ。並んで何かお話している。ナルミも笑顔を見せている。
あれは。あれは、私だけの笑顔なのに。
エレオノールの心から久し振りにナルミを見かけた嬉しさがどっかに消え失せてしまい、ただ、言いようも無い苦しい気持ちだけがそこにあった。苦しくて苦しくて、生まれて初めて泣きたくなった。
「!」
ミンシアがナルミの右の頬をペロリと舐めた。エレオノールは自分の総毛が立つのが分かった。
ミンシアはもう一度、鳴海の頬を舐める。そして、ニ、三、言葉を交わすとナルミは塀からヒラリと飛び降りた。
エレオノールはもうどうしていいのか分からない。
何だか胸の中がちくちくして、自分が汚れてしまったような気がして、ゴシゴシと顔をこすった。
まもなく、何事もなかったように、ナルミが現れた。数日振りのナルミは確実に大きくなっていた。
エレオノールよりまだ一回り小さいが格段に成長している。
大きくなった身体でエレオノールの傍にいつも通り甘えるように寝転がった。
「元気…じゃなさそうだな?どうした?」
声もかなり低くなった。
エレオノールは汚れているかもしれない自分をあんまりナルミに見られたくなかった。
「別に……さっき、塀の上であった娘、知り合い?」
別に、と言っておきながら、どうしても気になるので質問してしまう。
「ミンシア姐さんのことか?血は繋がってねぇけど、里親が一緒なんだ。久し振りに会った。ずいぶん大きくなったって言われたよ」
ナルミは『大きい』と言われたのが嬉しくて大きな声で笑う。
「それがどうかしたか?」
「別に……あの娘、ナルミのことが好きなのだと思っただけ。きっとおまえの子供を産みたいと思っている」
「でも、オレが好きなのはしろがねだから、ミンシアと交尾する気はないぞ?」
ナルミに『好き』と言われてエレオノールの心は少し落ち着いた。ようやくナルミと目が合わせられる。
「それは嘘だ。雄猫は発情した雌猫がいれば自然に発情してしまうものだ」
「オレはしないぞ!」
ナルミはムキになって言う。
「嘘だ。私は絶対、自分が好きになった猫としかしない。だから私は…その自分の好きな猫が他の娘と…そういうのはイヤなんだ」
そう、私は嫉妬深いのだ。自分でも嫌になるほど。
「オレはしろがねがイヤだってなら、絶対にしない。誓う」
「おまえが大きくなったって、私がおまえを好きな相手と認めるとは限らないぞ?」
「それでもいい。好きになってもらえるように努力する。それまでは…しろがねのために一人ぼっちでいる」
ナルミは『好きな相手と認めない』かもしれない、と言われて少し傷ついた顔をしたが、それでも真っ直ぐな瞳でエレオノールに訴える。
莫迦。
しろがねはナルミの右頬を舐めた。ペロペロと何度も何度も。
私の前で、他の雌猫の匂いさせないで欲しい。まったく鈍感なのだから。
ナルミは初めてエレオノールが優しく舐めてくれたので、初めはちょっとびっくりしたけれど、すぐに喉をゴロゴロと鳴らして喜んだ。
「桜、咲いたな。もう何日かしたら、もっともっとたくさん咲いて、花が雪みたいに降るんだっておじいさんが言ってた。そしたら、オレんちの庭に来いよ。大きな桜の樹が裏庭にあるんだ」
一緒に見よう。ずっと一緒にいよう。
エレオノールは気持ち良さそうに目を瞑るナルミの頬をずっと舐めていた。