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The cat's whiskers.
(下)
その次の日からまたナルミはエレオノールの前に姿を現さなくなった。
どんなに晴れていい天気でも、どこにも姿を見せなかった。
桜の花が咲いて、満開になって、雪のように散って、花散らしの雨が降り続いて、花の見頃が終わっても、ナルミがエレオノールの元に遊びにくることはなかった。
嘘つき。
一緒に桜を見ようって言ったくせに。
ずっと一緒にいようって言ったくせに。
エレオノールはずっと待っていた。ずっと屋根の上に座ってナルミの家を見ていた。ずっとずっと見ていた。
どうして会いに来なくなったのだろう?
私がちっともナルミに優しくなかったから、嫌いになったのだろうか?
他の雌猫と交尾するなと言ったから、嫉妬深い私のことが嫌になったのだろうか?
だって嫌だもの。ナルミとあの三毛猫が仲良くしているところなんて想像もしたくない!
ああ、ナルミはあの三毛猫のところにお婿さんに行ってしまったのかもしれない。彼女は可愛い猫だったもの。
考えて考えて、頭の中がナルミでいっぱいになるくらいに考えて、エレオノールはナルミのことが好きな自分に気がついた。
いつの間にか大好きになっていた。
早く会いたい。声が聞きたい。傍に来て。私を一人ぼっちにしないで。
ナルミに会うまでだってエレオノールはひとりだったけど、今はその頃よりずっとひとりが寂しい。
「ナルミ……」
ナルミ、ナルミ。
おまえは私の傍でお日様みたいに笑っていてくれればいいから。私はおまえにもっと優しくなるから。私を『しろがね』って呼んでくれ。おまえしか、その名前で呼んでくれないのだから。
このままじゃ私は心が痛くて死んでしまう…!
ナルミがいなくなったので再び数多の雄猫たちが求婚にやってくるようになった。途端にエレオノールのイライラは激増する。ナルミ以外の雄猫は私の傍に寄るな!と、機嫌の悪いエレオノールは以前にも増してこっぴどく雄猫たちを撃退する。
酷く気が立ってイライラをぶつけるエレオノールについて、そのうち、「彼女は妊娠しているからあんなに気が立っているのじゃあないか?」という噂がまことしやかに流れた。その噂は瞬く間に広がって、雄猫たちは傷心して誰もエレオノールの前に姿を現さなくなった。そんな噂が流れているなんて夢にも思わないエレオノールは急に静かになった環境を歓迎した。
静かになったらなったで、ナルミのいない寂しさが募り、溜め息がちの毎日が続く。
花が散った後の桜の枝に黄緑色の葉っぱが目立つようになってもナルミはいない。
エレオノールは今日もひとりで屋根に寝転がり、ぼーっと遠くの空を見ていた。こんなに広い空も私はナルミで埋め尽くしてしまった。
寂しいのを忘れるために、このまま寝てしまおう。
瞼を閉じかけたエレオノールの耳がぴくっと反応し、ばっと跳ね起きる。
雄猫だ!初めて見る顔。ここのところ、誰も来なかったのに!
それにしても何て大きな黒猫だろう?まるで小山だ。力ではまず勝てない。どうする?
エレオノールは後ずさり、逆毛を立てて威嚇した。
「おい、そんなに怒んなよ!ご無沙汰だから顔を忘れちまったのか?」
大きな黒猫は人懐こそうな笑顔を浮かべて、オレオレ、と自分を指差した。
「…え?まさか、ナルミ?!」
エレオノールはもしもナルミに会えたら恨み言をぶつけるつもりだった。でも、きっと嬉しくて文句なんて言えないだろうとも思っていた。そして今、文句よりも久し振りに会えた感動よりも何よりも、何をどうしたらそんなに大きくなれるの?という気持ちの方が優先された。
どうやったら短期間にそんな身体になれるわけ?
ナルミに会えない時間を途方もなく長く感じていたはずなのに、思わず『短期間』という表現を使わずにはいられない。唖然とするエレオノールに
「いや、家のじいさんが『ぎっくりごし』とかいう病気になっちまって、『びょういん』てとこに住むことになってさ、オレ、しばらくじいさんの知り合いの家に預けられてたんだ。今やっと帰ってきたんだ。それで急いでここに飛んできた」
急に来なくなってすまん。
そう言って謝るナルミに、エレオノールはもう何も言うことはなかった。
「そうか…」
「少しは寂しかったか?」
「少しは、ね」
本当は寂しくて死にそうだったのだけれども。もうそれもどうでもいい。
「それで…よ…」
ナルミは何だか言いづらそうにもじもじしながら、でも意を決して
「しろがね、妊娠したって…本当か?」
と訊いた。
「は?」
「いや……オレの預けられたところで…少し離れた町なんだけど、小耳に挟んでさ。オレ、もうどうしたらいいか分かんなくて。でもオレだけじゃ元の家には戻れないし。だから…」
エレオノールは急に雄猫たちが姿を見せなくなった理由が分かった。
それにしても、なんてとんでもない噂だろう?
ナルミの顔は辛そうに歪んでいる。
「もし、そうならおまえはどうする?」
「おまえに好きな雄ができたってなら仕方がない。おまえが子供を産んで、次の、いや、いつかおまえの発情期にオレを選んでもらえるように努力する。それまで一人ぼっちでいる。おまえに誓ったもんな」
ナルミは辛そうに、それでも懸命に笑顔を作る。
「…妊娠なんかしてない。子供ができるようなことなんかしてない。根も葉もない噂だ」
エレオノールがそう言うと、ナルミの顔は一気に明るくなった。
「よかったああ!オレはもう…おまえがそいつを好きなら仕方ないと思ったけど、直談判するつもりだった。オレ、おまえのこと、誰にも譲れねぇもん」
「ナルミ…」
「おまえってオレが預けられたところの雄猫の間でも有名だったよ。わざわざフランスから来たリシャールって血統書付きの猫もフラれたとかって。オレなんか雑種だからさ。おまえを好きになるのもおこがましいんじゃねぇかって…」
「血統書なんて、人間が決めたものだろう?ナルミはナルミだ!猫が猫を好きになって何がおかしい?」
弱気な自分に檄を飛ばすエレオノールが何だかとても一生懸命で、ナルミは嬉しくなった。
「なんだかちょっと見ねぇうちに、小さくなったな、しろがね」
しろがね、とナルミに呼ばれてエレオノールは胸がいっぱいになった。久方振りに聞くその名前。
「小さくなってない。おまえが大きくなったんだ」
「お?しろがね、オレを『大きい』って認めてくれんのか?」
それはそうだ。こうして並んでいても、エレオノールよりふたまわりも大きいのだから。
「いや…まだまだだ」
「そおかあ?結構おっきくなったと思うんだけど……後、何回まあるいお月様を見ればいい?」
「さあね」
もう、お月様の顔を気にする必要はないのかもしれない。
でも、それは言わないで、エレオノールは黙って微笑んだ。
「もうじき、オレんちの庭に咲きそうな花があるんだ。桜は一緒に見られなかったけど、今度は一緒に見よう」
ナルミにぴたっと寄り添って、エレオノールはこくんと頷いた。
ナルミは陽だまりの匂いがする。
お日様のようにぽかぽかするナルミの黒い身体にエレオノールは顔をこすり付けた。
「あと、二回くらいまあるいお月様見ないと駄目か?」
真面目な顔で訊いて来るナルミにエレオノールは苦笑した。
幸せ。
エレオノールは瞳を閉じる。
まもなく、猫たちの恋の季節がやって来る。
End