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低い、小さな家々の並ぶ住宅地。
人気のなくなった町はどこか淋しい雰囲気が支配している。
太陽が沈んでもうずいぶん経つ。
今夜は月が出ない、暗い。
厚い雲が星も覆い、まさに闇夜だ。
冷たい北風が強く吹き抜けて、しろがねは立てたコートの襟を握る手に力を込めた。
コツコツと靴の踵が石畳を打つ固い足音とガラゴロと大きなスーツケースを引き摺る音が静かな町に響いている。
ところどころに立っている外灯の灯りも何だか弱弱しくて、その足元もほとんど暗いまま。
身を切りそうに冷たい空気の中、しろがねの少し前を平行してひとりの男が歩いている。
いかにも、仕事帰りの家路を足早に急いでいる、という風体の中年の男だ。
しばらくして彼は通り沿いの一軒の家の中に吸い込まれた。
しろがねは、その家の前で足を止める。
室内に灯る暖かな電灯の色。
おかえりなさい、そう言って父親の帰りを喜ぶ子どもたちのはしゃぐ声(まだ小さなこどもだ。複数いる)。
小さな窓から滲むように漏れてくる美味しそうな匂い。
もうすぐ始まるご馳走の並ぶ音 。
しろがねは俯きながら、また歩き出した。
足音が先程よりも心なしか力ない。
それに自分で気がついて、しろがねはキッと顔を上げた。
別に。
淋しいわけではない。
うらやましいわけでもない。
彼らには家庭がある、家族がいる。
私には家庭がない、家族もいない。
それだけの違いだ。
私には最初からそんなものはない、そして、これからも。
私は独りで生きていける。
いつの時代も、どこの国でも、温かい家族たちの住む隙間を旅する、それが私。
私には孤独が居心地がいいのだ。
他人なんて、煩わしいだけ。
赤の他人と一緒に住むなんて、面倒なだけではないか。
私は独りが好き、独りがいい。
しろがねは旅を続ける。
当てのない、果てのない、永遠に続く孤独な旅を。
Home Sweet Home.
しろがねが鳴海と暮らすようになって、今日でちょうどひと月になる。
今年の春、社会人の仲間入りをした彼は意を決してしろがねに告げた。
一緒に暮らそう、と。
鳴海としてはもちろんしろがねとの結婚を前提としたものだ。
しばらく一緒に暮らしてみて、おまえがオレを嫌いにならなかったら結婚しよう、鳴海はそう言った。
しろがねはそんなお試し期間みたいなことをしなくてもいいのに、と思ったが、鳴海としてはしろがねへの譲歩のつもりらしい。
もしかしたら、一緒に暮らしているうちにどうしても我慢できない欠点をオレの中に見つけたときにすでに籍に入っていたらつけなくてもいい罰点をおまえにつけることになるから、と。
オレを間近で見て暮らして、それでも、オレを好きだと思えたら、一緒に歩いていくのがオレでいいと思えたら、そうしたら、オレはあらためておまえに言いたいことがあるから、と。
欠点が見つかるのはむしろ私の方じゃないのか、しろがねはそう思うと何だか背筋が寒くなった。
しろがねは鳴海に嫌われることが何よりも怖い。
慣れ親しんだはずの孤独が、何よりも怖かった。
孤独が、というのは不正確かもしれない。
『鳴海のいない人生』が怖いのだ。
しろがねには仲町サーカスという、いつでも帰ることのできる『家』がある。もう孤独ではない。
でも、傍らに鳴海がいなければ、どんなに賑やかに過ごしたのだとしても、しろがねの心は『孤独』なのだ。
時計は間もなく鳴海の帰宅の時刻がやってくるよ、と教えている。
こうして鳴海の帰りを待つときですら、このまま鳴海が戻らなかったらどうしよう、
私のいる家に帰るのが苦痛になっていたらどうしよう、などとしなくてもいいはずの心配をしている自分がいる。
ガタガタと窓が鳴った。表は風が強く吹いている。鳴海はきっと冷えて帰ってくるだろう。
暖かな室内。食欲をそそる夕餉の匂い。
テーブルの上に並んで使ってもらうのを待ちわびているカトラリー。
カトラリーは向かい合わせにみんな二揃えずつ。二揃え。その響きが何だかくすぐったい。
玄関のチャイムが鳴った。しろがねはパッと顔を輝かせて玄関へと向かう。
パタパタとスリッパを楽しげに歌わせて。
「ただいまぁ」
スーツ姿の鳴海が笑う。
「おかえりなさい」
鳴海は本当に嬉しそうに、出迎えたしろがねを抱き締めるとやさしくキスをして、「ただいま」ともう一度言う。
今、この瞬間、しろがねは鳴海のホームなのだ。
しろがねはスーツの背中に両手を回し、その冷えたネクタイに顔を押し付けた。
よかった。
今夜もナルミは私のところに帰って来てくれた。
しろがねは朝、出かけていったときと変わらない鳴海の帰宅を心から感謝する。
しろがねは初めてこうやって鳴海を出迎えた日、「ただいま」と言われて不覚にも泣いてしまった。
誰かに「ただいま」と言われ、「おかえり」と返事を返す。この当たり前のことがしろがねの心に沁みた。
それまでも、『仲町サーカス』という家族とともに暮らし、その中では日常の挨拶だったのだから何もこれが初めてではないのに。
初めて『仲町サーカス』で挨拶を交し合ったときは、嬉しくて胸が躍ったのを覚えている。
ああ、これが私の家族なのだ、生まれて初めてできた家族なのだ、と本当に嬉しかった。
それと、鳴海と何が違うのだろう?
勿論、嬉しい。大好きな鳴海。鳴海と交わす他愛ない挨拶。とても嬉しい。
じんわりと心の中が温かくなって、それが泣きたくなるくらいに幸せで。
そう、この人は自分の伴侶になろうと言ってくれている。一生を私と歩いて、新しい『家』を一緒に作ろうとしてくれている。私だけに変わらぬ愛を誓ってくれる。そして私も、この人なしの人生をもう考えられなくなっている。
私が世界一愛している人。
唯一無二の存在。
この人の居るところが、この人自身が私のホーム。
そして、この人にとっては私自身が、ホーム。
私だけが……ホーム。
これまでずっと、独りで旅をしていたとき、温かな家族の肖像を横目に、その傍らを興味も関心もない顔で通り過ぎながら、本当はそれが自分にもあったらどんなにいいだろう、そう思っていた。本当は欲しくてたまらなかった。
どうして自分には生まれたときからそれらがないのだろうと思っていた。
でも、考えても仕方のないことだったので、諦めて、その気持ちにベールをかけて心の底辺にしまいこんだ。
鳴海に「ただいま」と笑顔で言われて、しろがねは気付いた。
自分が不憫だと気付かないくらいに不憫だったことを知った。
哀しいくらいに強がって肩を聳やかして歩いていた、そんな昔の自分が切なくなった。
そして、そんな過去の自分が渇望していたものが今ここにあるのだ、
そう実感したしろがねの瞳から大粒の涙がボロボロと零れてしまったのだ。
夢見た、温かい、本物の、愛する人と自分だけの『家庭』が。
そのときの、鳴海の狼狽、動揺っぷりと言ったらなかった。
ああもお、なんで泣くんだよ?と言いながら、しろがねが泣き止むまでずっと寒い玄関で彼女を膝に乗せて抱き締めていた。
彼にはそうするしか術がなくて、ずっと泣くな泣くなと言いながらその背中を撫でていた。
私は、本当は
孤独を居心地がいいだなんて
本気で思ったことなんてなかった。
自分を可哀想だと思いたくないから
そう自分に言い聞かせていただけ。
「家に着いてよー……電気が点いてなかったらどうしよう、とかまだ考えちまう。オレも意気地がねぇよな」
鳴海は長い腕をしろがねに巻きつけて、その中に居る確かな存在を噛み締めているかのようだ。
これ以上はないくらい、お互いのことが好きなのに、自分に今ひとつ自信の持てないふたり。
今夜のメインは鳴海の大好きなコロッケで。
鳴海はソースをたっぷりかけたコロッケをおかずに何杯もゴハンをおかわりして。
今日の出来事をおもしろおかしくしろがねに話してやって、しろがねは楽しそうに笑った。
しろがねが笑うと、鳴海はその何倍も嬉しそうな顔をした。
ごちそうさまでした、鳴海がそう言って手を合わせたときには、テーブルの上の皿はどれもこれも空っぽ。
しろがねが洗い物を全部終わらせて、ダイニングとキッチンをすっかりきれいにしてリビングに行くと、その窓の外で鳴海が『日課』をこなしていた。
しろがねも表に出て、縁側に腰掛ける。
「寒ぃから中にいろよ、冷えるぞ?」
「ううん、平気。お風呂できているわよ」
「うん。じゃ、一緒に入るか、これ終わったら」
「もう」
この一ヶ月、変わることのない会話。
最近では、不変なものがあってもいいじゃないか、としろがねは思う。
不変でなければ困るものが存在するなんて、以前だったら思いもつかなかった。
「お疲れ様」
寒い夜空の下だというのに、全身に汗を掻きその身体から白い湯気を立てる鳴海にタオルを手渡す。
「さんきゅ」
タオルを受け取りながら、しろがねの指が氷みたいに冷たいことに気付いた鳴海は彼女の額をこづいた。
「ばっかだなぁ。明日からは家の中から見てろ」
「大丈夫。それにどうせ、これから一緒にお風呂入るんでしょ?」
「ばあか」
鳴海は笑う。
首にかけたタオルの両端を手で握って、鳴海は笑う顔を真面目なものに変えた。
しろがねはその表情にハッとした。
「あ、あの…ごめんなさい…あなたが心配してくれているの、ちゃんと分かっているから…」
「そんなんじゃ、なくて……」
鳴海は唾をゴクリと呑み込んで、喉を潤すと
「今日で一緒に暮らして一ヶ月。オレはおまえの返事を聞きたい。おまえはオレで、いいか?」
そう切り出した。
真剣で不安交じりの鳴海の顔には『頼むからYESと言ってくれ』と書いてある。
何て、分かりやすいヒト。しろがねはこくんと頷いた。
鳴海の顔はぱあああああっと明るくなる。
「ホントに?この先、ずっとオレがいるんだぞ?」
「あなたこそ、イヤじゃないの?ずっと私が傍にいるのよ?」
「おまえを嫌だなんて思ったことなんざ、一度だってねぇよ」
「私も」
「じゃ、結婚しよう」
躊躇いを微塵も見せない鳴海のプロポーズに
「はい」
としろがねは即答した。
不覚にも、また涙が零れそうだったから、しろがねは鳴海の身体にしがみついた。
「汗かいてて汚ねーぞ?」
「だからこれからお風呂に入るんでしょ?」
「それもそうだな」
鳴海はしろがねの頭をやさしく撫でて、その身体を抱き寄せた。
鳴海が耳元で「幸せになろうな」なんて囁くものだから、しろがねの瞳からはこらえてもこらえても涙が零れだしてしまって、もうどうにも止めることができなくて、ただただ、しろがねは心の中で
『あなたが大好き』
と叫んでいた。
これからのしろがねの人生は決して淋しい孤独なものなどではなく、賑やかで楽しくて温かくて、それこそ彼女がずっとずっと心の奥底から切望していたものになるだろう。
加藤鳴海と出会わなければ、しろがね自身、知ることのなかった愛情のこもったホームがこれからの彼女の帰る場所。
愛する人を出迎える彼女もまた彼のホーム。
こんな私に愛を教えてくれた、あなたが大好き!
何度言っても言い足りない、その言葉を何度も何度もしろがねは心の中で繰り返した。
End