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「お持ち帰りですか?」
「は……」
『お持ち帰り』、その言葉を聞いた途端、しろがねの顔は朱墨を塗ったくったようになり、それに肯定することがすぐにはできなかった。例え、その言葉を発したのが、目の前に立つ初対面のファストフードのアルバイトの女の子であっても。
「テイクアウトでお願いします」
固まっているしろがねの代わりに返事をしたこの大男の前では。
take out.
「後は団長と法安さん用の弁当を買って帰ればいいんだよな?」
大きな買い物袋を両手に下げた買出しの帰り道、若草色から草色へと街の空気も変わりだす、初夏の匂いのする昼下がり。
しろがねは鳴海の問いかけが聞こえなかったのか、まるで無反応。
「おいってば」
「な、何?」
しろがねは弾かれたように鳴海を見上げると、目を合わせた刹那、すぐに顔を真っ赤にして俯いた。
「だから、後の買い物は弁当だけか?」
「そ、そうだ」
ドキドキとしろがねの心臓が派手に立てる音は、動物並に五感の鋭い鳴海に聞こえてしまっているのではないのだろうか。
「おまえ、何だか最近、ぼーっとしてるよな。どっか具合でも悪ぃのか?」
「そんなことない!そういうわけじゃ…ない…」
しろがねは耳まで赤いその顔を更に赤く染める。
たった今すれ違った郵便ポストといい勝負だ、事情の分からない鳴海はそう思った。
先日、しろがねは花見の席で酔っ払う、という失態を犯した。
ワインだけなら酔うことなんて絶対にないのに。
思いの他に美味しかった日本酒が、赤ワインに比べたらすっきりと飲みやすいあのアルコールがあれ程までに神経を麻痺させるものだったとは。
調子に乗りすぎたのだ。
しろがねが調子に乗る、なんてことは鳴海が洗練された立ち居振る舞いをするのと同じくらい似つかわしくない言葉。
でも、本当なのだ。
この大男と花見をすることがしろがねにはとんでもなく楽しいことだったから、ついつい嬉しくて嬉しくて杯がすすんでしまったのだ。隣に座る鳴海の身体が時々しろがねの腕に触れたり、ずうっと邪魔されずにその横顔を見つめていられる長い時間を持つことができたことが嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
気がついた時には大脳どころか小脳までもが麻痺していた。
おかげで、まともに歩けなくなり鳴海に背負われる、なんて事態に陥ったのだ。
鳴海の背中は大きくて温かくて、とても心地よかった。
いつまでも、その背中に揺られていたいと思った。
そんな状態ではあったけれど、その時のしろがねは鳴海が考えた以上に、頭の中身がしっかりしていた。
しっかり、と言っても鳴海に負われてから寝床に着くまでの間に熟睡をしてしまった程度だけれど、道中、鳴海が語った内容を覚えているくらいにはしっかりしていた。
鳴海はしろがねのことを褒めた。
鳴海はしろがねのことを好きだと言った。
それを語る鳴海がいつもの鳴海と少し違うようで、男っぽくて、ドキドキした。
しろがねも鳴海のことを「好き」と応えた。
しろがねはそれを覚えていた。
でも、鳴海はしろがねが覚えてないと思っている。
「何にも覚えてねぇんだろ?」
そう言われたとき、しろがねは失態を犯したことが恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。
それに寝床に転がった自分の間抜けな寝顔を鳴海に見られたのかと考えると顔から火が出そうだった。
だから、しろがねも話を合わせて「覚えてない」と言った。
酒の席の上でのことだ。なかったことにしよう。無効だ。
でも、しろがねは鳴海の言葉を覚えている。
「お持ち帰りしちまうぞ」
そう言った彼の言葉も。
「お持ち帰りは今度、おまえがシラフのときにしとくよ」
そう言った彼の言葉も。
鳴海はしろがねを自宅に持ち帰ってどうするつもりだったのか。
そんなことはあらためて考えてみるまでもない。
それを思うとしろがねは赤面を止められない。
鳴海があの顔の下で自分をどうしたいと思っているのかが分かってしまったから。
鳴海は万事が万事あの調子だし、男同士や子ども相手に騒いでいることの多い人だから、そんなこと考えもしないのかとしろがねは思っていた。恋愛、なんて言葉はあの頭の中には存在しないのかと思っていた。
自分ばっかりが鳴海のことを好きで慕って考えて、鳴海は自分のことなんて小生意気な女、くらいにしか思ってないのだろうと淋しく思っていた。
それが、自分を抱きたいと、そんな風に好きでいてくれていると分かったのだ。
分かってしまった以上、しろがねは鳴海の言動にこれまで以上に過剰反応してしまう女になってしまうのはいたし方あるまい。
いつ、「お持ち帰りされるのだろう?」と、実は期待していた。
鳴海が何かしら口を開くたびに、誘われるのではないか?と身構えてしまう。
あの飲み会から一週間くらい経ったある日の夜遅く、しろがねはバイトの帰り道の鳴海とばったり一緒になったことがあった。そのときの自分の舞い上がりっぷり、取り乱しっぷりは酷いものだとしろがねは思う。(しろがね本人としては酷いものでも、鈍い鳴海には分からない程度のものではあった。)
駅から自宅への帰り道。鳴海の話もロクに頭に入らない。実際、頭に残っていない。
左は仲町サーカスのトラックがある道、右は鳴海の自宅のある道、その分かれ道が近づいてくる。しろがねの心臓は次第に鼓動を強くする。
どうしよう。
誘われたらどうしよう。
何て答えたらいいのだろう?
どんな顔をしたらいいのだろう?
私はどうなるのだろう?
抱かれた後、ちゃんとまた、カトウの顔を見られるのか?
そして、とうとうその分かれ道に着いた。
「なあ、しろがね」
鳴海に名前を呼ばれて
「なっなんだ?!」
と、とんでもなく大きな声で返事をしてしまい非常にかっこ悪い思いをした、そこからがその帰る道中でしろがねが覚えているできごと。
しろがねの鬼気迫るような目力に、鳴海は少し吃驚したような顔をした。
「そ、そんじゃ、な。また明日…」
たじたじと、鳴海は後ずさり、ひきつり笑いのようなものを浮かべ帰っていった。
今思えば、あの時の鳴海は自分を『お持ち帰り』しようとしてくれていたのではないか?
だのに、舞い上がった自分の、あの女らしさもムードも何もない受け答え。
あれでは鳴海の気が萎えてしまうのも無理はない。
自分で自分が情けなくて仕方がない。
次こそは!と気合を入れたところで鳴海から声がかからなければ詮無いわけで、あれから2ヶ月があっという間に過ぎてしまった。
まもなく入梅か、という季節。
雨続きで、仕事のない仲町サーカスにとってはヒマな季節。
しろがねは用事で出かけた駅からサーカスへの帰り道、突然降り出した強い雨に追いかけられていた。
住宅地じゃ雨を凌ぐところもない。
しろがねは役所からもらってきた大きな封筒を抱えているのでできたらあまり濡れたくない。サーカスの駐屯地まではまだ数分、雨の中を走らねばならない。
どうしようかな、困りながら小走りにしていると
「おおい!」
と後ろから呼び止められた。
しろがねが振り返ると同時に、その頭上に傘が差しかけられる。
「おまえの銀色は目立つなあ。ちょうど見つけたからオレも走って追いかけてきたんだ」
「カトウ」
「いきなり降って来たもんなぁ。オレはちょうど駅を出るとこだったからよかったけど」
コレを買えてよ、とビニル傘をふってみせる。
「降りそうな空だとは思ってたんだが、間に合わなかった」
鳴海を見上げるしろがねの柔らかな銀髪は雨でしとり、額や頬に張り付いている。
ほつれた髪を縫って白い顔を水滴が伝う。
さっきまで全力で走っていたしろがねは軽く肩で息をつき、上下する胸を覆うTシャツは雨に濡れて肌と下着の境目をくっきりと浮かび上がらせている。
大きく開いたTシャツの襟ぐり。
たわわなしろがねの胸が作る谷間に、いくつもの水滴が吸い込まれていく。
鳴海はごくりと喉を鳴らして、その音で自分がずっとしろがねの顔や身体を嘗め回すように見ていたことに気がついた。
「カトウ?」
「い、いや、何でもねぇ…さあ、行くか」
ふたりはゆっくりと歩き出した。
小さなビニル傘。ただでさえデカい鳴海には小さすぎる傘。それのほとんどをしろがねの上に傾けてやる。
それに気付いたしろがねが
「それではあなたが濡れてしまうではないか」
と言った。
「いいよ、別に。それにおまえの持っているそれ、濡らしたくないんだろ?」
「ああ。カトウ、ありがとう…」
「どういたしまして」
しろがねはできるだけ鳴海に身を摺り寄せた。鳴海の上にも傘がかかるように。
ふたりは腕でお互いの体温を交換しあう。
「今日はバイトじゃないのか?」
「今日は休み。ちっとヤボ用でな」
「そうか」
短い会話の後、ふたりは不意に黙り込んだ。
相合傘。
ふたりは黙ったまま、本当にゆっくりと歩く。
自分と相手しかこの世にはいないかのように錯覚できる、煙る雨に隔離された傘の中。
私は本当にこの人のことが好きなのだな。
しろがねは改めて実感する。
こんな些細なことがとても嬉しい。
腕と腕が触れる、その程度の温もりだけで私は充分に幸せだ。
ここしばらく、鳴海のことを変に意識していた自分が可笑しくて可愛くて、手に持った紙の封筒で顔を隠して、
鳴海に気付かれないようにくすりと笑った。
幸せな時間を共有したかったから、どちらからともなくゆっくりと歩いたのに、ふたりはもう分かれ道に来てしまった。
左は仲町サーカスのトラックがある道、右は鳴海の自宅のある道、その分かれ道。
ああ。
残念だな。もうお別れか。
しろがねはピタリと足を止めた。
鳴海も、それに合わせるように立ち止まった。
「なあ、しろがね」
「何だ?」
「オレんち寄ってくか?」
しろがねは傘の中での至近距離、鳴海の顔をついっと見上げた。鳴海の黒い瞳が静かにしろがねを見下ろしている。
「そうだな。一度、あなたの家に寄って……それから、傘を貸してもらってサーカスに帰れば…」
「いや、傘の話じゃなくてよ…」
鳴海は困ったように頭をガリガリと掻く。
「何つーか…オレ…」
「は?」
「できたら、その、おまえを…いや、おまえは覚えてないんだったな…」
ま、いいや。
鳴海はしろがねの背中をぽんと押し、歩くように促した。
「濡れちまう。中に入ったらタオルを貸してやるから…」
そこから鳴海の自宅は目と鼻の先。
家に着いた鳴海は鍵を開け、しろがねを招き入れた。
そして続いて鳴海も玄関に入る。
玄関の扉が閉まる。
雨垂れの囁きの中、カチャン、と鍵の閉まる音がした。
次にしろがねがそこから出てきたのは4時間近く後のことだった。
雨はもうすっかり上がって、玄関先に置かれたビニル傘からも水滴が垂れなくなっていた頃、
「もう、夕飯の時間だから…」
そう言いながらしろがねが表に出てきた.
何だか妙に熱っぽい顔をしていて、まだ髪が濡れている。
「おう、気をつけて帰れよ」
見送る鳴海の髪は幾分解れて、上半身は裸のままだ。
そしてその手はしろがねの手と繋がれていた。
「またね」
「またな」
鳴海の唇がしろがねを捕まえる。
手と唇を離した後、しろがねはフワフワと雲を踏む心地で家路に着いた。
自分の身体の何もかもが自分のものでないような不思議な感じ。
背中に羽が生えたみたいで、重力を感じない。
お持ち帰りされて食べられたから、どこか身が削げて少し身体が軽くなったのかも。
そんなことを考えるしろがねの心もとてもとても軽くなっていた。
お持ち帰り。
お味は如何だったかしら?
End